長山城跡である亀山公園に立つ毛利敬親像、背後の山は高嶺城跡
毛利輝元から長門国を分地された秀元が築こうとしたが未完成に終わった城
所在地
山口県山口市亀山町8(亀山公園)
【アクセス】
ザビエル記念聖堂の北にある小山(亀山公園)が城跡で、山の北側(博物館前信号から70mほど南西へ行ったところ)に山頂へ登る道があり、山頂部に駐車スペースがある。
ザビエル記念聖堂:山口市亀山町4-1
形状
山城
現状・遺構等
【現状】 亀山公園、サビエル記念聖堂
【遺構等】 水堀
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2012/11/18
歴史等
長山城の築城時期は定かではないが、天文16年(1588)に仁保氏を継いだ元忠が毛利輝元から長山城番を命ぜられたことがる。
慶長4年(1599)、朝鮮出兵から帰国した毛利秀元は、大内輝元から長門一国・周防吉敷郡及び父の遺領であった安芸佐伯郡を含めた合計17万石余を分知された。毛利秀元の父は、毛利元就の4男・穂井田元清の長男であり、輝元の従兄弟にあたる。
秀元は山口を本拠に定め、長山城を修築を始めたが、完成しない慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が起った。
戦後、毛利家の減封に伴い、秀元も長門長府に移った為、長山城は廃城となった。
『「日本城郭大系14」、「ウィキペディア毛利秀元」参照』
現況・登城記・感想等
長山城は、亀山公園となり、山頂の広い主郭(多分)に長州藩幕末の藩主毛利敬親の騎馬像が立っている。
しかし、公園化されすぎて、明瞭な遺構は確認できない。慶長期に築城が始まった毛利氏の城であるなら、たとえ、未完成で、さらに破城されたとしても、石垣の一部、少なくとも石垣の石が全くないのが不思議だ。 築城開始後、かなり早い段階で断念したのでしょうか?
また、日本城郭大系によれば、県立美術館の東南の池が堀跡だというが、あまりにも近代的で信じられないような・・・?
それよりも、亀山公園の北西麓にある池の方が、遥かに堀の雰囲気が残っている。池のある位置から考えても、恐らく、こちらも堀跡だろう。
尚、山頂部の主郭からは、ところどころ山口市街を見渡せる場所があり、瑠璃光寺や八坂神社(築山館)・龍福寺(大内氏館)、高嶺城の説明板など、いろいろ設置されているが、長山城に関するものは全くない。せめて、石碑か説明板くらい欲しいところですね。
(2012/11/18登城して)
ギャラリー
主郭下に立つ亀山公園の碑
主郭下に平坦地があるが、腰曲輪でしょうか。ここに駐車スペースがある。
大内義長の裁許状の碑
大内義長がサビエルの弟子・トルレスに教会建立の許可を与えたもので、ヨーロッパに送られた裁許状はラテン語版の「東洋イエズス会書簡集」に掲載されたそうである。その本から複製したものが碑になっている。勿論、全く読めません( ̄ー ̄;。
主郭
主郭跡は、綺麗に整備された公園になり、城の明瞭な遺構は残っておらず、主郭の真ん中に、長山城とは全く関係のない幕末の藩主・毛利敬親の騎馬像(TOP写真参照)が建てられているだけだ。
毛利敬親といえば「そうせい侯」の名で有名で、その評価は低いようだが、言い換えれば、周りの意見をよく聞き、優秀な人材を登用してあまり口を挟まなかったというのは、結果的には長州藩における明治維新の最大の功労者なのかもと考えるのは私だけでしょうか?
尚、背後に見える山は高嶺城跡です。
主郭からの眺望① ~瑠璃光寺~
主郭からは、ところどころ山口市街を見渡せる場所があり、瑠璃光寺や八坂神社(築山館)・龍福寺(大内氏館)、高嶺城の説明板など、いろいろ設置されている。
主郭からの眺望② ~築山館跡と大内氏館跡~
主郭からの眺望③ ~紅葉の隙間から高嶺城跡を~
水堀跡①
日本城郭大系によれば、県立美術館の東南の池が堀跡だというが、あまりにも近代的で信じられないような・・・?
水堀跡②
池は、亀山公園の北西麓にもあるが、こちらの方が遥かに堀の雰囲気が残っている。池のある位置から考えても、多分、水堀跡でしょう。