三の丸から見る二の丸石垣と中御門跡
名門相良氏400年の近世平山城
別名
繊月城(せんげつじょう)、三日月城
所在地
熊本県人吉市麓町
形状
平山城
現状・遺構等
現状;城址公園
遺構等:曲輪・石垣・井戸、堀(水堀・空堀)、復元(大手門、多聞櫓、長塀)、碑、説明板
満足度
★★★★★
歴史等
平安時代の末、人吉城は、もともと平氏の代官矢瀬主馬祐が城主であったとされる。建久9年(1198)、遠江国(現静岡県)相良の出身で人吉荘の地頭となった相良長頼が、矢瀬氏を滅ぼし、翌年から人吉城(中世人吉城・原城)の修築を始めた。その時、三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城、或いは繊月城ともいう。やがて、相良氏は芦北・八代・薩摩方面へと領土の拡大を図り戦国大名として発展する。
しかし、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征服により、球磨郡のみを支配することになり、以後は人吉藩22,165石の大名として明治4年(1871)の廃藩置県まで存続した。
近世人吉城の本格的な築城は、20代長毎によって天正17年(1589)、豊後(現大分県)から石工を招き始められられた。慶長6年(1601)には本丸・二の丸・堀(御館南の堀と推定)・櫓御門(中御門と推定)まで完成している。慶長12年から川沿いの石垣を築き始めた。寛永16年(1639)に幕府に気がねして石垣工事は中止されたが、この時にはほとんど完成されていたと思われる。
『現地説明板、人吉城歴史館パンフレット参照』
訪城日
2007/01/04
現況・登城記・感想等
多くのの遺構が残る素晴らしい城址であることは知ってはいたものの、所詮2万2千石の城であるしとも思っていました。しかし、そんな心配を見事に裏切ってくれました(笑)。まさに、想像を遥かに超える素晴らしい城址でした(*^_^*)。
人吉城は、最高所に本丸を配置し、南側と東側は急崖となり、北側と西側を二の丸、さらに三の丸が取り囲む典型的な梯郭式平山城です。
私は、まず最初に水ノ手橋から川沿いの石垣を見てから、右に武者返しの付いたはねだし石垣、左に水ノ手門を見ながら入城しましたが、堀合門から奥に見える坂等々、いずれも見応えたっぷりです。
さらに感激したのが、御下門からの九十九折の登城坂です。下から見上げても、上から見下ろしてもどちらも素晴らしく、表現力の乏しい私には、「本当に素晴らしい」としか表現できないのが悔しいくらいでした。
また、三の丸から見る、「右上に二の丸石垣、奥に中御門の枡形」も人吉城の石垣の美を堪能出来る。
残念ながら、多少モヤで霞んではいましたが、三の丸・二の丸・本丸からの眺望も絶景です。
説明板等も充実しており、満足・満足の城めぐりになりました。
(2007/01/04登城して)
ギャラリー
人吉城縄張図 (現地説明板より)
人吉城絵図 ~人吉城歴史館パンフより~
人吉城模型(奥の山が中世人吉城) 人吉城歴史館展示より
人吉城全景(右のやや高い山は、中世の人吉城)
球磨川沿いの石垣
御館北側のはねだし石垣(武者返し)
この石垣上には長櫓があり、文久2年(1862)の寅助火事で焼失した。翌年、櫓は復旧されず、代りに石垣を高くして、その上端にはねだし工法による「武者返し」と呼ばれる突出部をつけた。この工法は、西洋の築城技術で、嘉永6年(1853)品川台場で初めて導入され、五稜郭や龍岡城等の西洋式城郭で採用されており、旧来の城郭で採用されたのは人吉城だけである。
水ノ手門跡
人吉城内に入る4ヶ所の門の一つである水ノ手門は、正面3間の板葺建物で、球磨川に面する水運のための門であったことからこの名が付けられた。
堀合門跡
城主の住む御館の北側に置かれた門である。廃藩置県の後の城内建物を取り壊す時に、土手町に住む新宮家に移築された。門は薬医門形式で、人吉城で現存する唯一の建造物である。
御下門
御下門は「下の御門」とも呼ばれ、人吉城の中心である本丸・二の丸・三の丸への唯一の登城口に置かれた門である。大手門と同様の櫓門形式で、両側の石垣上に梁間5m、桁間20mの櫓をわたし、その中央下方の5.5m分を門としていた。
御下門を見下ろす
三の丸へ
御下御門から九十九折の坂道を登り切ると三の丸へ出、正面に二の丸の長~く延びる石垣が目に入ります。
中御門
左前方に目をやると、見応え充分な中御門の石垣が見えます。
三の丸(下の段)から二の丸と塩蔵の石垣を
三の丸は、2段になっています。まずは、下の段を西進し、三の丸北西部(於津賀社跡辺り)から二の丸方面を見ると、これまた長~く延びる塩蔵下の石垣(写真手前)と二の丸石垣(中央奥上の段)、さらに井戸曲輪石垣(写真左)の石垣群が実にかっこいいです。
塩蔵と井戸曲輪間の虎口
塩蔵と井戸曲輪の間にある三の丸上の段に通じる虎口です。これまた、なかなかの光景です。背後の平坦地(三の丸)は於津賀社(おつがしゃ)跡。初代相良長頼の入国前の人吉城主・矢瀬主馬祐を祀る霊社跡です。
三の丸(二の丸西側)
三の丸上の段に登って、二の丸西側の三の丸へ入り、二の丸西面の石垣を撮ったものです。
三の丸(上の段)から二の丸の石垣と中御門を
この光景に、すっかり見惚れてしまい、何枚も写真を撮ってしまいました。
井戸曲輪
二の丸の北面石垣の中央部下には、井戸曲輪があり、大きな井戸跡があります。
中御門
三の丸上の段から井戸曲輪経由で、再び中御門へ出ます。三の丸から二の丸への虎口は2ヶ所あり、北東部にあるこの中御門跡は見事な枡形虎口です。
中御門(二の丸から見下ろす)
三の丸北西部の虎口
二の丸へ入るもう一つの、この二の丸北西部の虎口もしっかりしたものです。この虎口を下りたところは井戸曲輪になります。
二の丸
石のある辺りは御殿があった所で手水鉢が残っています。奥の階段を登った小高い所が本丸です。
堀切
城の東側は急崖になっていますが、自然の谷を、さらに削ったのではないでしょうか。当写真は二の丸東端から撮ったものです。
二の丸の井戸跡
往時は屋根があったのでしょうか、4隅に柱跡があります。
本丸
本丸は、はじめ「高御城」と呼ばれていた。地形的には天守台に相当するが、天守閣は建てられず、寛永3年(1626)に護摩堂が建てられ、その他に御先祖堂や時を知らせる太鼓屋、山伏番所があった。中世には「繊月石」を祀る場所であったように、主として宗教的空間として利用されていることに特色がある。
御館跡
北側の武者返し石垣の内側がセメントで固められているのは、保守上しょうがないのでしょうが、やはり幻滅です。
水堀と御館御門橋
大手門跡
大手門内側には人吉市役所が建っています。
大手門隅櫓(復元)長塀(復元)
長塀にある石落し(復元)
家老屋敷跡
大手門周辺は城の防備にとって重要な場所であり、監視のための番所を置き、重臣が配置されていた。ここは渋谷家(150石)の屋敷跡です。
大井戸遺構(相良清兵衛屋敷内地下室)
人吉城内には、井戸のある地下室が2つ発見されています。
大井戸遺構(相良内蔵助屋敷内地下室)
特殊な目的のために造られた井戸と推定されるが、全国にそのような発見例がなく、上段の遺構とともに今も謎は解けていないとのことです。