五稜郭(函館市)

五稜郭タワーから全景を見下ろす

欧米の侵略に備えて築かれたはずの日本初の稜堡式城郭が箱館戦争の地に

別名

亀田役所土塁

所在地

北海道函館市五稜郭町・本通一丁目

形状

稜堡式平城

現状・遺構等

【現状】 五稜郭公園
【遺構等】 石塁、土塁、水堀、兵糧庫(現存復元)、石碑、説明板

【国指定史跡】
指定日:大正11年10月12日、追加指定:昭和4年4月2日
(特別史跡指定)昭和27年3月29日
指定理由:徳川幕府の箱館奉行所跡で、土塁・石垣など遺構の保存もよく、洋式築城法により築造された幕末の重要な遺跡。
面積:24万7,900㎡

満足度

★★★★★

訪城日

1998/06/19
1999/05/01
2007/09/10

歴史等

安政元年(1854)日米和親条約により函館を開港することとなった幕府は、北辺防備と蝦夷地開拓を目的として、函館奉行所を再設置した。当時の奉行所は、函館山の麓にあったが、港に近く、山からも見え易いなど、軍事上極めて不利なことから、竹内保徳、堀利熈(としひろ)の両奉行からの提言により、内陸部のこの地に移築が決まった。
工事は、安政4年(1857)に着工し、およそ8年の歳月を経て、元治元年(1864)5月にほぼ完成した。当初は「亀田御役所土塁」と呼ばれた。縄張はオランダ兵学を学んだ大洲藩士武田斐三郎で、当初は街全体を城郭内に取り込んだ巨大城塞を提案したが、税制逼迫の幕府にその予算はなく、奉行所を守る稜堡式城郭の建設に落ち着いた。
こうして蝦夷地の政庁として造営された奉行所は、慶応2年(1864)までに全ての工事が完了したが、翌3年(1865)の大政奉還による幕府崩壊後も、明治政府の箱館裁判所・箱館府の役所として利用された。
明治元年(1868)10月、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍に占拠され、翌2年(1869)5月までの間、箱館戦争の舞台となった。
幸いにも戦火を免れた庁舎であったが、開拓使本庁が札幌に移転することになった明治4年(1871)の資材とする為に大半が解体された。
『「現地案内板」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」より』


【一口話】

五稜郭建設では、築城中も予算不足が続き、正面の石垣は山から切り出した巨石を整然と積み上げることが出来たが、裏側の搦手側は、近くの河原に転がっていた石を利用した為、貧弱な姿である。

現況・登城記・感想等

期待が大きすぎたのか、綺麗であるし珍しい形の城郭ではあるが、規模も形も含めて、当初から想像していた以上のものでも、それ以下のものでもなかった。
2回目の訪城も、5月連休の前半で、桜の季節には若干早かったが満開時に来たらもっといいでしょうね。
とは云いながら、公園としてよく整備され、気持ちよく散策できる。タワーがもう少し高いと全体がよく見えていいんだけど・・・。
(1998/06/19・1999/05/01の2度の訪城後に)


五稜郭へは8年ぶりの登城である。今日は同じく稜堡式の戸切地陣屋 (へきりちじんや)を見て感激してきたばかりであった。
五稜郭は、当然それよりも遥かに規模も大きく、石垣も使われ素晴らしいのだが、何故か感激度が少ないのは、想定範囲の中にあるからであろうか?
前回までと印象が違い、郭内の通路が複雑に感じたのは、奉行所の復元工事のためだけだろうか?奉行所が復元されたらまた来よう。
それから、自分の記憶が如何にいい加減かと、今更ながら思ったのは、場所も含めて五稜郭タワーが新しくなったのに、前回との違いが、展望台から見下ろす印象も含めて、よく分からなかったことである。ただ、タワー下のパン屋さん(Food & Drink 107)のパン(あんこギッフェリ)とソフトクリーム(大沼山川牧場スペシャルミルクソフト)は美味かった!!
(2007/09/10登城して)

ギャラリー

新五稜郭タワー
DSC02001

【タワーから見る五稜郭】 ~クリックにて拡大画面に~
DSC02026

DSC02027

大手口の稜堡型馬出し
大手口の三角形の稜堡型馬出しが実にかっこいい。
DSC02036

【入城】
大手口から入城
DSC02024

稜堡型馬出しの切込みハギの整然と積まれた石垣
DSC01992

水堀
DSC01994

大手側の石塁
これらの石垣も、切込みハギの整然とした、かなり高い石垣だ。
DSC01996

土塁上にて
土塁上には大変な数の桜の古木が植えられ、5月10日頃には見頃である。
DSC02006

稜角部を内側から
稜角部には、写真右の様ななだらかな坂道が造られているが、これは大砲を上げる為のものであろう。また、奥の低い土塁のようなものは何だろうか?知ってる方がいらっしゃったら教えて下さい。
DSC02005

搦手口の石垣
大手口の石垣との違いを見たかったが、工事中で立ち入り禁止の為、遠く土塁上から眺めることしか出来ず、大手口との石の違いはよく分からなかった。
DSC02007

搦手口の馬隠し?の石塁
大手口の正面奥にも、このような石塁があったが、大手口は藤棚で隠れてしまっていた。
DSC02013

兵糧庫
元治元年(1864)五稜郭が築城された当時のものである。この兵糧庫だけが、戦火及び解体を免れた。老朽化のため、平成13年から14年にかけて復元工事がされた。
DSC02016

大砲
左は「ブラッケリー砲(前装式施条砲)」で、昭和36年(1961)市内豊川町より発見。旧幕府脱走軍が湾内攻撃のため築島台場に設置したものと思われる。右は「グルップ砲(前装式施条砲)」で昭和7年(1932)七重浜埋立て工事の際に発見。幕府脱走軍軍艦蟠龍に撃沈された新政府軍軍艦朝陽の艦載砲と思われる。
DSC02021

玄関式台
函館博物館五稜郭分館横にあるこの玄関式台は、なかなか立派なものであり、従来「箱館奉行所内玄関式台」と伝えられてきたが、平成17年度の解体調査によって違うことが分かった。この玄関式台は「旧函館税関」の海岸に面した玄関に使用されていたものであるとのこと。
DSC02022

トップページへ このページの先頭へ

コメント

お洒落なオヤジ(2006/01/12)

今年、五稜郭は何かが変わると聞いておりますが、何でしょうか?

                 むーちゃん

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント