薩摩 伊作城(日置市)

本丸(亀丸城)と蔵之城間の堀切

島津家中興の祖・島津忠良(日新公)誕生の城であり、近世島津氏発祥の城

読み方

いざくじょう

別名

亀丸城、石亀丸城、殿の城

所在地

鹿児島県日置市吹上町中原(城山憩いの森)
【アクセス】
国道270号線と県道22号線の交わる「中原信号」を200mほど東進すると川へ出る。橋を渡り50mほど進み左折し(県道22号線も同様に左折になっている)、200~250mmほど行くと、左手橋のたもとに「亀丸城」の案内板が立っているので、それに従って橋を渡り、あとは案内板にそって行けば「城山憩いの森」の広い駐車場に行ける。

形状

山城(標高72.5m)

現状・遺構等

【現状】 城山憩いの森(山林)
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、堀切、井戸跡、石碑、説明板、遺構案内板

満足度

★★★★

訪城日

2012/11/16

歴史等

伊作島津家は、薩摩国守護第3代・島津久経が次男・久長に弘安4年(1281)、伊作荘の地頭職を譲ったことに始まる。
伊作城は、暦応・康永年間(1340年代)に伊作島津氏初代久長が築城したと伝えられ、その頃は「中山城」と呼ばれていた。その後、10代忠良(日新斉)に至るおよそ250年間の伊作島津氏の居城であった。
忠良は、「島津氏中興の祖」であるとともに、「戦国大名(近世)島津氏の祖」といわれる。
忠良の父善久が死去したのち、忠良の母・常盤は相州家・島津運久と再婚した。そして、永正9年(1512)、運久は相州家の所領を忠良に譲ったので、忠良は伊作家と相州家の当主となり、居城を田布施城に定めた。
かくして、大永6年(1526)頃には、忠良は、清水城(鹿児島市)の島津本家の勝久、出水城の薩州島津家の実久と並ぶ勢力となり、大永7年(1527)4月には忠良とその子貴久が清水城へ入り、勝久が伊作城へ入った。
ところが、6月には、勝久は、伊作城を伊地知重貞に任せ、自身は清水城へ戻り、忠良・貴久父子は田布施城へ戻ったという。仕掛け人は実久とされる。
忠良と貴久は、7月23日、伊作城攻めをして、重貞を倒し、これを回復した。
その後、忠良・貴久は南薩に勢力圏を築きあげ、天文19年(1550)鹿児島へ入り、本家居城・清水城ではなく、新たに内城を築いてこれを本城とし、戦国大名へと歩を進めた。この間、忠良は伊作城を本城としていた。
忠良(日新斎)は、永禄11年(1568)加世田にて死去した。伊作城は近世島津氏の発祥の地として、江戸時代には「御番」が置かれたという。
尚、忠良の孫であり、貴久の優秀な4人の息子(義久・義弘・歳久・家久)も、当城で生まれている。
『「日本城郭大系18」、「現地説明板」、「島津義久 九州全土を席巻した智将・桐野作人著(PHP文庫刊)」ほか参照 』

現況・登城記・感想等

伊作城は、標高70m強のシラス台地を刻む浸食谷を利用して築かれた、東西約900m、南北約450m、周囲約2.5kmの大規模な山城である。。
城の縄張りは、南九州特有の群郭式城郭で、亀丸城(本丸)を中央にして、主だった曲輪は、西に御仮屋城・西之城(2郭)・花見城、東に蔵之城・東之城(3郭)、さらに、その南には山之城と、合計10ヶ所あり、そのほか周辺に多くの支城・砦など大小合わせると28ヶ所以上もの曲輪からなるという。
曲輪間には、浸食谷を利用して掘削された大規模な空堀がめぐり、各曲輪がそれぞれが独立しているのが特徴である。
山中に埋もれた伊作城跡は、巨大な空堀をはじめとして、曲輪、土塁などの遺構が良好に残り、見応え充分だ。
ただ、整備は必ずしも万全とはいえず、おまけに知覧城跡を見たあとだったので、それと較べるともう一つかな?
さらに、御仮屋城と西之城を見落としてしまったし( ̄ー ̄;。
(2012/11/16登城して)

ギャラリー

伊作城縄張略図(現地案内板より)
伊作城の縄張りは、南九州特有の群郭式城郭で、亀丸城(本丸)を中央にして、西に御仮屋城・西之城(2)・花見城、東に蔵之城・東之城(3)、その南に山之城の合計10の曲輪からなる。
尚、ここから下の案内では、「東之城」については、3つの曲輪の内、中央に位置する東之城を指すことにします。
伊作城縄張り略図

駐車場
「城山憩いの森」の駐車場は、東之城の南西下にあり、駐車場の東側に東之城と山之城があり、道路を挟んで西側に本丸(亀丸城)をはじめ、蔵之城、御仮屋城、西之城、花見城がある。写真左上は、東之城。 
00駐車場

土塁
駐車場入口から本丸へ向かうべく、西の方へ下りて行くと、道路沿いに土塁が確認できる。土塁の向こうは深い谷になっている。
01土塁

本丸と蔵之城への登城口
左手に土塁を見て、さらに少し下りて行くと、右手に登城口がある。この道は、本丸と蔵之城間の空堀で、堀底道になっている。ここから少し登って行って撮った写真がTOP写真です。
02登城口

本丸と蔵之城への分岐点
登城口から少し登って行くと、本丸(左)と蔵之城への分岐点に出る。蔵之城への道には木橋が見える。まずは本丸へと、左へ向かう道を登って行った。
04分岐点

本丸虎口
分岐点から、少し登って行くと、本丸虎口が現れる。虎口の両側を土塁で挟んでいる。
05虎口

本丸(亀丸城)
本丸は北辺が長く、南辺がやや短い台形状で、東西(長辺)が約70m、南北約60mあり、周囲は全て切り立った崖になっている。
10本丸

誕生石と城趾碑
本丸の西には、4種類の石碑が立っている。写真右から、義久・義弘・歳久・家久の誕生石、亀丸城趾の碑、女子の誕生石、日新公の誕生石、善久・忠良・忠将・尚久の誕生石。
尚、義久や義弘などの4兄弟の父・貴久は田布施城で生まれたので、ここに石碑はない。
12石碑

日新公の誕生石
さすがに、日新公の誕生石(中央)は大きめです。右側は女子の誕生石で、左側は善久・忠良・忠将・尚久の誕生石。
13日新公誕生碑

土塁
本丸西端には、土塁が確認でき、特に西に備えていたのがわかる。
14土塁

井戸跡
土塁の手前に井戸跡があるが、完全に埋まってしまっている。井戸跡を示す石碑がなかったら気が付かないでしょう。
15井戸跡

蔵之城への土橋
蔵之城への登城道は堀切で断ち切られ、木橋が架けられている。この堀切の両側は、切り立った崖になっており、それほど深くはないが迫力がある。また、堀切の左側の方は、物凄く深くなっていて、これまた迫力満点です。
19木橋

蔵之城
蔵之城の周囲も、本丸と同様、切り立った崖になっている。
21蔵之城

蔵之城土塁
蔵之城にも、低いながらも、一部土塁が確認できる。
22蔵之城土塁

山之城と東之城へ向かう
駐車場の真ん前が、東之城と山之城への登城口になる。写真左が東之城で、右の方へ行くと山之城へ行ける。
32山之城への登城口

大空堀
登城口から少し登って行くと、左側下に深~い空堀があるのに気が付く。深さ20mは、ゆうにあるでしょう。深いだけでなく、幅も広い大規模な空堀で凄い迫力です。
さらに、少し行くと、東之城(左方向)と山之城(直進)へ向かう道が分かれる分岐点へ出るが、まずは山之城へ・・・。

33空堀

小曲輪
山之城を目指して登って行くと、小さな曲輪跡へ出る。東之城の南側の小曲輪です。小曲輪の周囲も切り立った崖になっている。ここにはベンチが置いてあり、展望場になっているようだ。尤も、眼下の景色は見えるが、それほど眺望は広くない。
34曲輪

山之城の北側の大堀切①
小曲輪から、南側へ下りて行く道があったので、下りて行くと、山之城と断ち切る大堀切が現れた。写真右奥が山之城です。
35空堀へ

山之城の北側の大堀切②
この堀切は、箱型になっており、通路としても使用されていたのでしょう。
36堀切

山之城
堀切を渡って、山之城へ入ると、右が山側になり、ぐるっと廻って行く帯曲輪のような道がある。その道を歩いて行くと「山之城」についての案内板があった。山の上が「山之城」でしょうか?
また、帯曲輪様の道は、所々広くなっているが、それらは、ちょっとした曲輪跡でしょうか?

38山之城

山之城??
案内板が立っている辺りだけ、急斜面ながらも、何とか登って行けそうだったので、強引に登って行ったら、電力会社の塔が建っているだけでしたw(*゚o゚*)w。まあ、一応「山之城跡」なのでしょうかねえ。尚、その奥の方は、全く未整備状態で、強烈な藪でした。
39山之城

東之城へ
山之城下の帯曲輪様の道を、ほぼ1周してから、東之城との分岐点まで戻り、今度は東之城へ登って行った。

41東之城へ

東之城
東之城は、かつては畑や果樹園にでもなっていたかのような雰囲気でしたが、現在は、ご覧のとおり草茫々です。
42東之城

東之城北側の大空堀
これまた、凄い迫力です。やはり深さは20m、否、30mほどあるかもしれません。これらの、大空堀が、当城跡の最大の見どころでしょうね。
43東之城堀切

東之城東側の空堀
この空堀は、自動車も通れる道路として利用されている。それでも、充分、迫力があります。
45東之城堀切

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