小田原の役で陥落した皆川城に代わって築かれた城
所在地
栃木県栃木市城内
(栃木第四小学校の東)
形状
平城
現状・遺構
現状:城址公園、市街地
遺構等:土塁の一部、水堀の一部、説明板
満足度(10点満点)
2点
訪城日
2007/06/03
歴史等
応永元年(1394)皆川秀光が築いたとされているが、定かではない。
くだって、天正19年(1591)皆川広照が、豊臣秀吉の小田原合戦時に陥落した皆川城にかわるものとして、
この地に城を築いた。
その規模は、城の西入口より栃木町の通りまで約618m、城の周りは約927m、本丸は東西約149m、南北約133mで、
二の丸は東西約127m、南北約65mであったという。
小田原合戦で、広照は後北条氏に味方し、小田原城に入ったが、
密かに城を抜け出し、徳川家康を通じて降伏したので、皆川3万5千石は安堵された。
慶長8年(1603)松平忠輝が信濃川中島藩に封ぜられた時、
かつての忠輝の傅役の功により、広照は信州飯山7万5千石を賜ったが、その後、慶長14年(1609)、広照が忠輝の不行跡
(これについてははなはだ疑問であるが)などからの責めを負い改易となり、栃木城も取り壊されてしまった。
『「現地説明板」、「歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)」参照』
現況・登城記・感想等
栃木第四小学校のすぐ東にあるが、非常に分かり辛い上に、道が狭く、駐車場もない(2~3台なら置けないこともないが、
関係者以外駐禁となっている)。
城址は、40m四方程度の小さな城址公園(実際は児童公園?)となっており、二の丸の一部土塁と、
その北西部に小さな水堀の一部が残るだけである。
西側の水堀奥に古風で瀟洒な家が建ち、その水堀とのコラボレーションがなかなか良かった。
(2007/06/03登城して)
ギャラリー
城址公園
城址は、40m四方程度の小さな城址公園(実際は児童公園?)となっている。
二の丸の一部残る土塁
土塁北側の水堀
土塁西側の水堀 ~クリックにて拡大画面に~
水堀奥に古風で瀟洒な家が建ち、その水堀とのコラボレーションがなかなか良かった。