駿河 長久保城(長泉町)

八幡曲輪と北側の土塁

駿河と伊豆の境目の城、後北条氏・今川氏・武田氏の争奪戦が展開

所在地

駿東郡長泉町下長窪、城山神社公園
城山神社公園:JR長泉納米里駅の西1km弱、トイザラスの西の森
駐車場:公園の西に10台強と南西に3~4台ほど

形状

平山城

現状・遺構等

現状:城山神社公園、市街地
遺構等:曲輪、土塁、堀切、模擬櫓(展望台)

満足度(10点満点)

4点

訪城日

2009/06/27

歴史等

長久保城は、北駿からの南進地、平野部の支配拠点として、戦略上の要地にあり、駿河と伊豆の「境目の城」として、戦国期には武田氏、 後北条氏、今川氏によって争奪が繰り広げられた。
長久保城の創建時期や築城者は定かではなく、天文年間に、 後北条氏の進入に備えて今川氏が築いたという説や後北条氏2代氏綱が築いたという説等、多くの説があるが、いづれも確証はない。
城の合戦史としては、天文14年(1545)と元亀2年(1571)に激戦があった。
天文14年(1545)7月、今川義元は関東管領の山内上杉憲政と呼応して、長久保城を囲み、8月、城外狐橋において両軍は激闘となった。
一方、上杉憲政は、扇谷上杉朝定と連合して、北条綱成の守る武蔵河越城を攻囲した。 さらに9月、甲斐の武田信玄が今川氏の援軍として富士郡の大石寺に布陣した。この間、義元は後北条方の泉頭城、戸倉城を攻撃した。
このため、後北条氏は兵力の分散を余儀なくされ、やむなく10月、北条氏康は今川義元と和し、長久保城を開城し、 伊豆国境に退くこととなった。
しかし、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで義元が斃れ、永禄11年(1568)には、再び北条氏が領有したが、元亀2年(1571) 武田氏に攻められ落城し、後北条氏は韮山城まで退却を余儀なくされた。 この武田氏の時代に、城は大改修され、対北条氏の前線基地として戦国城郭にふさわしい要害となった。
天正10年(1582)、武田氏が滅んだあと、徳川家康が家臣を交代制で守らせ、改修も頻繁に行なっている。今日残る遺構は、 その徳川氏時代のものと武田氏時代のものであろう。
天正18年(1590)の小田原攻めの時、家康は長久保城を拠点として使用し、4月には豊臣秀吉を城に迎えている。
小田原の陣後、駿府城主中村一氏の所領となり、 三枚橋城代中村一栄の配下となった。 慶長5年(1600)、中村氏の伯耆米子城移封にともない長久保城は廃城となった。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)」他参照』

現況・登城記・感想等

長久保城は、本丸・二の丸・三の丸・八幡曲輪・南曲輪・大手曲輪・東出丸等からなる連郭式と梯郭式の複合型の縄張である。
今では、その多くが市街地に埋もれてしまったが、八幡曲輪と南曲輪の一画が、城山神社公園として城の名残を留めている。
八幡曲輪と南曲輪を囲む大土塁は、高さ約5m、長さ約50mもあり、城の防御の堅固さを伝えおり、見応え充分である。
本丸は、黄瀬川にのぞんだ台地上に構えられていたが、削土のために消滅、二の丸も削られ、南部分にはトイザラスが建ち、 北部分は国道246号線が通っている。三の丸は、宅地・北小学校・工場・マンション等になっている。
僅かに、三の丸北側(東部分)の土塁と堀切は残されているが、藪がひどくて中を覗くことも出来なかった。二の丸北側の空堀は消滅。 八幡曲輪の北側の空堀は国道246号線となり、往時より大規模な堀切になっている(苦笑)。
(2009/06/27登城して)

ギャラリー

縄張略図
本丸・二の丸・三の丸・八幡曲輪・南曲輪・大手曲輪・東出丸等からなる連郭式と梯郭式の複合型の縄張である。

八幡曲輪と南曲輪の全景
今では、その多くが市街地に埋もれてしまい、往時の面影を残しているのは、 城山神社公園の中に残る八幡曲輪と南曲輪の一画のみである。この写真は、国道246号線に架かる橋の上(公園の北西部)から撮ったもので、 正確に言えば、八幡曲輪の全景と云うべきかも。中央の建物は模擬櫓(展望台)。

公園への入口
公園への入口は、4箇所あり、ここは公園の北西部になる。写真の土塁は八幡曲輪北側の土塁。

模擬櫓?(展望台)
上写真の入口から入って行くと、この模擬櫓(展望台)が建っている。上って、周りを見渡したが、 それほど眺望はよくない。それに、この展望台、各階の天井が低くて、頭をしこたまぶつけてしまいタンコブが出来た!イテテ!!

八幡曲輪北側の土塁
この土塁は実に良好に残っている。高さ約5mあり見応え充分だ。また、土塁上を散策することも出来る。東端 (写真手前)に土塁上から八幡曲輪へと「滑り台」が作られ、子供が滑り降りていた。まあ、これも一興かな!?

南曲輪
南曲輪には城山神社が鎮座している。

南曲輪の南側から西側にかけての土塁
南曲輪の土塁も、南側から西側にかけて良好に土塁が残っている。

南曲輪&八幡曲輪の西側の土塁を外側から
南曲輪の外側から撮ったものである。写真で見ると、それほどの高さを感じないが、結構高く、 低い部分で3m近くあり、手前の南曲輪側はさらに高く、5m近くある。

八幡曲輪北側の空堀の今!?
八幡曲輪の北側の空堀跡は国道246号線となり、往時より大規模な堀切になっている(苦笑)。

二の丸
二の丸跡は、台地をすっかり削り取られて、トイザラスと国道246号線になり、跡形もない。

三の丸
三の丸跡の東部分にはマンションのようなビルが建っていた。左側の土塁は、三の丸北側の土塁で、 幅20mはある立派なものだ。よく残っていたものだ。

三の丸北側(東端)の土塁と堀切
堀切の手前に説明板(写真中央下)があり、堀切と土塁についての説明がされており、さらに、 「長久保城の城郭は、その大部分が失われてしまいました。この空堀と土塁は、城の姿を今に伝える貴重な遺構です。」とあり、その下には 「文化財を大切に」と書かれていた。『本当です。もう少し、早く気付いて欲しかった!!』

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