甲斐 新府城(韮崎市)

新府城本丸跡

織田軍の侵攻に備えに武田勝頼が真田昌幸に命じて築かせた城

正式名

新府中韮崎城

所在地

山梨県韮崎市中田町中条上野字城山

形状

平山城(標高:522m、比高:72m)

現状・遺構等

【現状】 韮崎市立公園(山林)、国指定史跡
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、水濠、土橋、馬出虎口(枡形)、井戸、石碑、説明板

【国指定史跡】
指定日:昭和48年7月21日
指定理由:武田勝頼の築城である。石垣を用いず、特に北側堀中に2ヶ所、堰堤状の土塁を突出させた構えはたぐいまれである。武田氏最後の城として、また種々優れた構造を残す点において価値が高い
面積:27万6,500余㎡
資料館:なし

満足度

★★★★

訪城日

2003/09/06
2009/11/03

歴史等

新府城は正式には新府中韮崎城といい、天正9年(1581)春、武田勝頼が甲斐府中として城地を七里岩南端韮崎の要害に武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。
祖父信虎が府中の要害城山麓の躑躅ケ崎に館(躑躅ケ崎館)を築いて以来60有余年、「攻撃こそ最大の防御」とした信虎・信玄、そして勝頼に至り、今まで城らしい城を築いたことはなかった。
勝頼がこの地に築城を決意したのは織田信長の甲斐侵攻に備え韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。築城工事は昼夜敢行で行われ、着工後約8ヶ月余りで9分どおり完成した。ついで城下町も移ったので「新府韮崎城」と名付け、同年12月甲府からここに移り、新体制を引いた。
しかし、戦局は日に悪化して翌年3月3日、南信濃か織田信長の嫡子信忠を総大将とする織田の大軍を目前にして、勝頼は自らこの城に火を放ち、一族郎党を引き連れて小山田信茂の岩殿山城へ落ち延びていった。そして、11日夕刻、勝頼・信勝父子と勝頼夫人らは小山田信茂の裏切りで進退に窮し、天目山田野の里で自刃した。
勝頼の新府城は在城60余日という短さであった。廃墟と化したこの城も同年6月本能寺の変で織田信長が滅び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修築して本陣とし、われに5倍する兵を率いて若神子城に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府城の真価を発揮したのである。
武田氏滅亡後、甲斐国を領有した徳川家康は甲府城を築き、新府城は廃城となった。
この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形を良く生かして築かれその城地の特長は城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西2基の出構を築き鉄砲陣地とした点で、従来の城郭には見ることのない斬新な工夫である。現存する主な遺構は頂上の本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸、大手、三日月堀、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり北から東に堀が巡らされている。史跡指定地域は約20ヘクタールにおよぶ広大なものであるが、この外側には武将らの屋敷跡と伝えられる遺構、遺跡が散在している。
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」参照』

現況・登城記・感想等

6年ぶりの登城である。前回は、城址にはあまり興味のない会社の同僚達と一緒だったので、じっくり廻るのは今回が初めてだ。
さすが、真田昌幸の縄張である。突貫工事とはいえ、断崖絶壁の七里岩を要害とし、一山すべてを土塁・空堀・曲輪を複雑かつ機能的に配置した城郭は、規模、築城技術ともに優れた城郭であったであろう。新府城址は、これらの遺構が良好に残り実に見応えのある城址である。
しかし、遺構見学もさることながら、新府城は、ここで戦闘が行なわれたわけではないが、やはり勝頼の悲劇を思い起こしながら巡る城址だろう。
時、今となっては、いずれにしても滅亡は避けられない運命であったのであろうが、一部未完成であったとはいえ、これだけの要塞を棄て、更には岩櫃城に退くことを進言した真田昌幸の言を入れず、小山田信茂の言を信用して岩殿山城を目指した勝頼の心中や如何にである。
これらのことを思い巡らしながら、良好な遺構が残る静寂の城址を廻ると、まるで自分が当時の世界にいるかのような錯覚に陥る!?ちょっと大袈裟?(汗)
また、遺構の中でも、城の北側にある 「出構」 は、昌幸の次男幸村 が「大阪の陣」にて、大阪城外に構築した「真田丸」を思い起こさせ興味深いものがある。
(2009/11/03登城して)

ギャラリー

新府城縄張略図(現地説明板より)
01新府城縄張略図

新府城想定復元絵図(現地案内板より)  
01新府城絵図

七里岩
新府城 は、八ヶ岳火山の泥流によって出来た七里岩の断崖上に築かれた南北600m、東西550mの平山城である。七里岩というだけあって、延々と続いている。井上靖著「風林火山」の一節で山本勘助が由布姫に、この七里岩の台上を指差し、お城を築くならこの場所が良いと話す場面がある。 
02七里岩

出構
城の外郭の一部を長方形に堀の中へ突出させた鉄砲陣地で、防御上最も弱いとみられる北正面に向けて、東西に約100m隔てて平行に2本が築かれている。写真手前が東出構で奥に見えるのが西出構。これを見ると、この城の築城者である真田昌幸の次男幸村 が「大阪の陣」にて、大阪城外に構築した「真田丸」を思い起こさせ興味深いものがある。
03出構

首洗い池
出構のある北側から東側にかけて外堀(多分、往時は水堀だっただろう)が掘られている。この首洗い池は、その東側の堀の南部分である。勿論、実際に首が洗われたかどうかは知りません。 
05首洗い池

藤武稲荷神社(本丸跡)への石段
新府城本丸跡には藤武稲荷神社が鎮座し、山(城跡)の東斜面には一直線に山頂(本丸跡)へ登る石段が設けられている。尤も、この石段は神社建設の際に造られたものでしょう。
城跡東下を通る道路(写真下)を南へ進み、南大手門から登城できますが、今回は、この急な石段(250段ほどあります)を登って直接本丸跡へ向かうことにしました。

06登り口

帯曲輪に立つ鳥居
急な石段を登ると帯曲輪へ出ます。帯曲輪には真っ赤な鳥居が建っています。
07鳥居

帯曲輪
鳥居のところから、本丸跡へは、帯曲輪を右へ進む「乙女坂」もあります。
08帯曲輪

藤武稲荷神社
鳥居から、さらに、急な石段を登ると、本丸へ出ます。本丸には新府城守護神藤武稲荷神社が祀られています。
09稲荷神社

本丸南側
本丸は南北約120m、東西約90mの広さがあり、周囲は高さ約1~2mの土塁で囲まれている。
11本丸南側

本丸北側
本丸中央やや北側には一部空堀のような凹部があるが・・・? 
13本丸北側

本丸北側土塁と石祠・武田勝頼公霊社と長篠徒陣歿将士之墓
本丸北側土塁のところには、「甲斐国主四百年追悼の碑(左)」、「長篠陣没者慰霊塔」、「長篠徒陣歿将士之墓」、「石祠・勝頼公霊社」などがあります。 

石祠・勝頼公霊社は武田氏滅亡後、当地方民が国主の恩徳を追慕し石祠を建立し、勝頼の心霊を納め之を祀って勝頼神社と称して毎年卒去の日に慰霊祭を執り行っています。建立時期は貞享・元禄(1684)の頃と言い伝えられています。(説明板より) 
15本丸北側土塁と霊社

本丸北側土塁上からの眺望
本丸北側土塁上からの眺望はよく、八ヶ岳が正面に見えます。 
17眺望

蔀の構
本丸と本丸馬出しの間にあり、城内を見透かせないように工夫したもので、植込み・蔀土居・蔀塀の構えです。
18蔀の構

本丸虎口
本丸虎口を本丸内の蔀の構の土塁上から撮ったもので、奥の土塁の切れ目が虎口で、枡形になっています。 
19本丸虎口

本丸西側の馬出し
本丸の西側の二の丸と本丸の間には空堀のような地形があります。最初、見た時は空堀跡、或いは、かなり浅いので腰曲輪かも思いましたが、蔀の構の説明板によるとどうやら丸馬出しのようです。 
21空堀か腰曲輪か

二の丸
二の丸東側虎口から撮ったものです。二の丸内は大部分が藪に覆われていますが、周囲を囲む土塁は良好に残っています。 
23二の丸

二の丸南西部角の土塁
土塁の高さは曲輪内からは1m前後です。西側は急崖になり七里岩へと落ち込んでいるようです。
25二の丸南西部土塁

二の丸南側虎口
二の丸の南側には虎口があり、馬出しと繋がっています。 
27二の丸南側虎口

二の丸馬出し
案内板の想定図によると、二の丸の南側が馬出しとなっており、この写真の場所がそうですが、どういう構造になっているかよく分からりませんでした。 
29馬出し

本丸南側の曲輪①
本丸の南側には幾つもの曲輪があるが、すぐ南側のこの曲輪はかなり広く、周りを土塁が囲んでいます。この後、多くの曲輪を見ましたが、いずれの曲輪も周囲は土塁で囲まれていました。 
31曲輪

本丸南側の曲輪②
上写真のさらに南側にも幾つもの曲輪があるが、この辺りの土塁の曲線が何ともかっこよかった。
33曲輪2

二の丸手前の登城道
正面奥の土塁上が二の丸、左土塁上が馬出し、右は本丸南側の曲輪です。この大きくカーブする登城道と土塁がかっこいいですね。
35二の丸手前の登城道

西三の丸
西三の丸はかなり広く、周囲を取り囲む土塁も良好に残っています。 
37西三の丸

東三の丸
東三の丸は強烈な藪で、入って行くのを断念! 
39東三の丸

【西三の丸と東三の丸周辺の曲輪群】
西三の丸と東三の丸の西側や南側には、多くの曲輪が複雑に配置されています。南大手門や馬出し等の案内板が微妙な所に設置されていて、イマイチよく分かりませんでしたが、絵になる曲輪や土塁、空堀等が一杯です!!
西三の丸の西側の曲輪群①
西三の丸の西側にも多くの曲輪があり、それぞれの曲輪周囲の土塁と虎口が見応えがあります。
41曲輪群1

西三の丸の西側の曲輪群②
この曲輪は、上写真の奥に見える虎口を出たところの曲輪です。 
42曲輪群2

西三の丸の西側の曲輪群③
この写真は、上写真の曲輪からさらに降りていったもので、左下に腰曲輪が見えます。右土塁上が、上写真の曲輪になります。
43曲輪群3

東三の丸の南側の馬出し?
この辺りの上を通る道端に南大手門の案内板があったが・・・?それからすると、これは空堀か馬出しでしょうか?
45空堀

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コメント

富岡武蔵(2009/11/11)

群馬県吾妻郡高山村にある中山城が大変良く整備され、藪がすべて伐採されたため、後北条流の空堀が実によく見ることができています。
是非出かけてください。

タクジロー(2009/11/11)

情報ありがとうございます。
中山城は、以前出掛けた時に東側の農道は、今日は稲の刈入れ時で農作業の方がいっぱいで道が塞がっており、また、北側にも廻ってみたが、途中から道が細くなり、また駐車出来るような空地もなかったので、国道145号線沿いの道路端の石碑のところに駐車して登城しようと思ったのですが、夕方で時間も無くなり諦めた城です。
是非、登城したいと思っています。
空堀、楽しみですね。

戦国山城大好き(2013/05/05)

整備され見やすかったけど
松茸栽培の赤松が至るところにあった(;´_ゝ`)

タクジロー(2013/05/06)

新府城は、規模も大きく、何よりも、勝頼が真田昌幸に命じて築かせたものだというので、興味津々での登城でした。
そして、想像通り、良かったです。

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