城址全景
武田信玄の父信虎が躑躅ケ崎館の詰めの城として築城、信玄出生の城
所在地
山梨県甲府市上積翠寺町
形状
山城(標高:780m、比高:260m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、虎口、石積み、堀切、竪堀、井戸、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2001/10/06
2006/06/03
歴史等
信玄の父武田信虎が、甲斐国内をほぼ統一し、甲斐国の中心である府中(甲府)への進出を決断して、永正16年(1519)
12月に新館(武田氏館・
躑躅ヶ崎館)を落成させ移り住んだ。そして、翌17年(1520)に、石水寺(積翠寺)
の丸山に緊急時に立て籠もる詰めの城として要害城を築いた。
この要害城で嫡男太郎(晴信・信玄)が、大永元年(1521)11月3日に生まれた。
要害城は、信虎・信玄・勝頼と3代にわたって使用され、武田氏滅亡後も修築・再整備された。
城は山腹から主郭にいたる通路に沿って、枡形虎口や郭が複雑かつ連続的に付設されているほか、竪堀や堀切を要所に設けて防備を固めている。
山頂の主郭には、規模の大きな建物が存在したと推定される。
南東尾根上には支城の熊城があり、深い堀切で区切られた連続的な小郭と畝状竪堀が特徴的である。
『「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
甲府駅から躑躅ケ崎館跡まで20分、見物後さらに要害城まで、バスに乗れば良いものを、1時間30分近く歩いた。
だらだらと長く続く坂道は本当にきつかった。やっと登り口まで来たら、何と「熊出没注意」の看板があり、最近よく出てくるとのこと。
ここまで苦労して歩いて来てとの想いもあり、迷っていると散歩の人に出会い、その旨を聞くと「熊は知らないが、最近、
猪がしゅっちゅう出てきて、畑を荒らすので困っている」とのこと。熊も怖いけど、猪もいやだなあと考えた末、今回は涙を飲んで諦めた。
遺構が実によく残っていて素晴らしいとのことである。もうひとつの登り口の「ホテル要害」側に廻って、要害山城跡を見たが、名前に相応しく、
まさに天然の要害といった感じで素晴らしい。いつか絶対また挑戦するぞ。
(2001/10/06訪問後)
前回(2001/10/06)、熊出没注意で断念した要害城に会社の友人・友井さんと行ってきました。今回は、無理をせず車で
「ホテル要害」の所まで行き、そこから登城しました。躑躅ケ崎館からの登り道は車でもかなりある。前回、よく歩けたものだと今更ながら思う。
今ではとても無理だな!
要害城は500年もの年月を経ている割には遺構が非常に良好に残っていた。特に、私が気が付いただけでも3箇所もの枡形虎口や、
今でもはっきり分かる堀切は素晴らしい。ただ、「信玄産湯の井戸」を見逃した。他の曲輪や門跡などの案内板はいたる所に出てくるのに、
案内板がなかった。何故??
(2006/06/03登城して)
ギャラリー
要害城地形図
谷を隔てて、南東尾根上に支城の熊城がある。
登城口「ホテル要害」のところから城址全景
前回は秋(10月)でもあり、もっと岩肌がむき出しになっていた記憶があるが、
今回は草木が最も元気な6月初頭。それでも、ところどころ岩肌がむき出しになっていて、いかにも中世の山城といった感じ
登りはじめていきなりの石垣
ただ、この石垣は当時のものではなさそう。石がきれいで、新しすぎる。
登城道
整備され歩き易いが、結構急坂である。
天然の物見台?
3方にわたって見晴らしがよく、多分、物見台だと思うが全く説明板がない。
土塁(最初に出会った土塁)
枡形虎口①
門跡が非常に多く、はっきりと枡形虎口になっているのは、気がついただけでも3箇所以上あった。
不動曲輪
左:不動曲輪からの甲府市内の眺望 右:ズームアップ(中央に躑躅ケ崎館の堀が見える)
石垣
所々に石垣が残っている。よく見ると土に埋もれた石がいっぱいある。実際はもっと残っているようである。
門跡の石垣
石垣が所々に残っているが、この門跡の石垣が最も良好な形で残っている。
枡形虎口②
本丸虎口手前の枡形虎口であるが、この枡形は結構広い。
本丸への虎口①
本丸への虎口②
本丸への虎口と土塁(土塁上から撮影)
本丸虎口と土塁(本丸内から撮影)
本丸を一周している土塁(石垣も残っている)
本丸跡に建つ「武田信玄誕生の地」の石碑
本丸(標高780m、比高260mある)
本丸への搦め手虎口前の見事な堀切
この堀切には石垣も残っている。
土橋と竪堀
それにしても竪堀の多いこと。中でもこの竪堀は見事である。
竪堀
本当に見事な竪堀が多く、この竪堀も絶壁になっている。