模擬天守(富山市郷土博物館)
佐々成政が大改修をし、のちに加賀藩・前田家より10万石分与
別名
浮城・安住城
所在地
富山県富山市本丸1-62(富山城址公園)
形状
平城
現状・遺構等
現状:富山城址公園
遺構等:模擬天守(郷土博物館)、曲輪、石垣、水堀、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
1996/08/03
2007/06/08
歴史等
神保長職(ながもと)は、父慶宗の死によって没落した自家の再興に取り組んだ。神保氏は、一向一揆勢と手を結んでおり、太田保
(富山市南部に広がっていた荘園)に進出し、この足がかりとして、天文12年(1543)越中守護代神保氏が重臣水越勝重に命じ築城させた。
神保氏の進出は、椎名氏との争い(天文の大乱)となり、長職はこれに勝利し、やがて富山城は神保氏の本拠地となった。
しかし、椎名氏は越後上杉氏の代官であったため、上杉謙信の出兵を招くこととなり、永禄3年(1560)、長職は富山城を追われた。謙信は、
その後も越中への進攻を繰り返し、一向一揆などの反上杉勢力と戦った。
一方、甲斐の武田信玄は、永禄8年(1565)に一揆方と結び、さらに同11年(1568)、松倉城
(現魚津市)の椎名康胤を上杉方から離反させ味方につけた。
このため翌年8月、謙信は松倉城を攻め、
新川郡を支配下に置いた。その結果、富山城も上杉方の支城になったと考えられる。
元亀3年(1572)6月、一揆勢は、信玄の上洛作戦を支援するため、富山城を奪ったが、謙信は同年8月、城を包囲し、
翌年8月には一揆勢を富山周辺から追い払った。こうして天正4年(1576)、謙信は越中全域をほぼ支配下におさめた。
謙信死後の天正6年(1578)、織田信長の勢力が越中に伸びてきて、同8年(1580)頃になると、織田方の神保長住(長職の子)
が富山城に入り、その支援のため佐々成政が越中に派遣され、翌年には越中一国を与えられた。その後、
神保氏の有力家臣だった小島職鎮らが上杉方と結び富山城を奪うが、織田勢は間もなく奪い返し、長住を追放し、成政が富山城主となった。
本能寺の変後も、成政は豊臣秀吉によって越中支配を認められたが、やがて秀吉と対立したため、天正13年(1585)
秀吉の征討を受けて降伏し、富山城も破却された。
その後、天正18年(1590)頃に加賀金沢藩前田家の持城となった。
そして寛永16年(1639)加賀金沢藩三代藩主前田利常の次男利次が、
10万石を分与され富山城に入城、初代富山藩主となり、以後232年間富山藩主前田家13代の居城であった。
廃藩置県後、城の建物は徐々に解体され、堀は埋め立てられていった。残った旧城内には県庁等の公共建物が建ち並んだが、
再三の大火や富山大空襲にて灰燼に帰した。現在の富山城は、昭和29年(1954)の富山産業大博覧会に際して、旧鉄(くろがね)
御門石垣上に建設されたものであり、郷土博物館としてその歴史を伝えている。
『「富山市郷土博物館(模擬天守)内展示物」、「現地説明板」より』
感想等
富山藩は加賀前田家の分家であるが、富山と云えば、やはり佐々成政のイメージの方が強い。
現存の遺構は、どうやら石垣だけらしいが、本丸内は市民の憩いの場所になっており、緑豊かないい公園になっている。
また郷土城博物館もなかなか結構ではあるが、城址という観点からは、模擬天守の城でもあり、あまり感慨といったものはない。
(1996/08/03訪城して)
ほぼ10年ぶりの登城であったが、一番驚いたのは、模擬天守の白壁がすっかり綺麗になっていたことである。前回登城したときは、
白壁というより完全な「ねずみ色の壁」であった。こうして改めて眺めてみると、模擬とは言いながら、すっかり定着し結構様になっている。
また、郷土博物館(模擬天守)の中の展示が、以前と較べると随分充実し、じっくり見て廻ったが、随分勉強させてもらった。
また、廃藩置県後、赤祖父家に払い下げられていた富山城の唯一の遺構である千歳御殿門が、赤祖父氏のご好意により、
130年ぶりに富山城に戻ってきていた。残念ながら、まだ工事中でネットの中に隠れていて見えなかったが・・・。
また西の丸方面等々他の場所も、発掘調査や工事中で見学出来ないところが多かった。富山市も遺構の重要性にやっと気が付き、
動き始めたようだ。2~3年後にきたら、まだまだ大きく変わって入るかも知れないね。尤も、今の模擬天守のようなものは、
今後は止めてほしいけど。
(2007/06/08登城して)
ギャラリー
郷土博物館(模擬天守)
~クリックにて拡大画面に~
㊧1996年8月3日と、㊨2007/06/08の比較
ほぼ10年ぶりの登城であったが、一番驚いたのは、模擬天守の白壁がすっかり綺麗になっていたことである。
前回登城したときは、白壁というより完全なねずみ色の壁であった。
郷土博物館(模擬天守)
~クリックにて拡大画面に~
こうして改めて眺めてみると、模擬とは言いながら、結構様になっている。
水堀
本丸前から西の丸にかかる水堀は相当な広さで、水を満々と湛えている。
本丸正門である枡形形式の鉄門跡
なかなか立派な枡形で、石垣の所どころに大きな石(鏡石)が使われている。
㊧本丸、㊨西の丸
西の丸は、石垣等の工事のため立ち入り禁止で、天守上から撮影
礎石
郷土博物館横に、発掘された二階櫓門や慶長期の柱の礎石等が陳列されている。
搦手の枡形
東出丸への出口になる。正面北側の石垣は江戸時代しばしば崩れ修理されている。
千歳御門
廃藩置県後、赤祖父家に払い下げられていた富山城の唯一の遺構である千歳御殿門が、赤祖父氏のご好意により、
130年ぶりに富山城に戻ってきていた。残念ながら、工事中でネットの中に隠れていて見えなかった。
【郷土博物館内の展示品の数々】
㊧銀鯰尾形兜(前田利長が用いたと伝えられる)、
㊨萌黄糸威胴丸(富山藩主前田利幹着用)
杣田青貝細工鳳凰図鍔(そまだあおがいほうおうずつば)
天保8年杣田光久作
実にきれいなもので、
無粋な私でさえも見とれてしまった。
【富山の鱒寿司】
富山の名物といえば鱒寿司である。私の好みでいくと、高岡市内にある「山正
(高岡城参照)
」が一番であるが、勿論富山市内の鱒寿司も美味く、紀雅(のりまさ)、小林、青山、高田屋等々が美味いと思う(人によっては「源」
のでさえ美味しいという?)。今日は、久し振りに「高田屋」のを買ってみました。