遠江 二俣城(浜松市天竜区)

天守台石垣

武田・徳川攻防の城、家康の嫡子信康が信長の命で切腹した城

別名

蜷原城

所在地

浜松市天竜区二俣町二俣字城山

形状

平山城(標高90m)

現状・遺構等

現状:公園、山林
遺構等:天守台、曲輪、土塁、石垣、空堀、虎口、石碑、説明板

満足度

★★★★☆

訪城日

1989/11/26
1990/03/18
2005/04/23

歴史等

二俣城の築城年代は明らかでないが、『遠江国風土記伝』によると、今川氏親の家臣・二俣昌長が室町時代末期の文亀年間 (1501~03)に築いたとしている。文亀年間という根拠が何かは不明ではあるが、ほぼその頃の築城とみて間違いないようである。
そのあと、遠州堤城主(掛川市小笠町)松井信薫(のぶしげ)が二俣城主となる。信薫の没後、弟の宗信が城主となり、 その頃かなり手を入れたものと考えられる。宗信は永禄3年(1560)の桶狭間合戦に従軍し、討死しており、 そのあとは子の宗垣が継いでいる。
しかし、今川氏真が没落してしまい、城は徳川家康の領有となり、永禄11年(1568)には鵜殿氏長が城代として入っている。のち、 武田信玄が遠江への進出に動き出す頃になって、城将は中根正照に代っているが、その時、元亀3年(1572)11月、 三方原合戦の前哨戦ともいうべき二俣城の攻防戦があった。
武田軍は天然の要害である二俣城を攻めあぐむが、城の水の手が崖に井楼を建て、天竜川から水を汲み上げているのを知り、 上流から筏を流して井楼を破壊した。城兵の生命線ともいうべき水の手を断たれたため二俣城はついに2ヶ月ほどで落城し、以後、 武田方の武将依田信蕃(のぶしげ)が城代となった。
のち、天正3年(1575)5月、長篠の戦いで勝利を得た徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。鳥羽山に本陣を置き、 毘沙門堂・蜷原(になはら)・渡ヶ島に砦を築き二俣城を包囲した。武田軍は7ヶ月で兵糧が底をつき城を明け渡した。
そして二俣城には大久保忠世が入城し、大規模な修築がなされ、天守台をはじめとする諸施設を構築したと考えられる。そして天正18年 (1590)家康の関東への転封とともに、忠世も小田原転封となった。
次に、堀尾吉晴が浜松城に入り、 二俣城はその支城となったが、慶長5年(1600)に堀尾氏が出雲富田に転封すると廃城となった。
この間、天正7年(1579)9月15日、家康の嫡子信康が織田信長の命によって二俣城で切腹したことは有名である。
『静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)参照』

現況・登城記・感想等

信長の命により家康の嫡子・信康が切腹させられた城であり、また、武田と徳川の攻防の城でもあり、新田次郎の「武田信玄」 や司馬遼太郎の「覇王の家」等多くの本に出てくる城である。非常に興味があり、浜松へ転勤になったときから気になっていた。しかしながら、 しょっちゅう近くを通りながら、初めて登城したのは浜松へ転勤後10年以上もたってからである。
城址は二俣の町の西側の山にあり、北曲輪の北にある搦手口の所まで車で登れる。
北曲輪の西側は腰曲輪で、通路になっていて登っていくと、本丸と北曲輪との分岐点に着く。北曲輪には神社が建っており、 その北隅に土塁の一部が残っている。
本丸虎口があり、入って行くと本丸は不整形な四角形で、西隅には10~12m平方程度で、高さ4m程の野面積みの天守台がある。 大きなものではないが、静岡県内の戦国期に築かれた城で石垣を積んだ天守台がある唯一の城址だそうだ。二の丸は本丸と一緒になっているが、 その南側下段の方に堀切を隔てて蔵屋敷・南曲輪とあるが、草茫々といった感じで降りて行くのを諦めた。
平山城ではあるが、木々が生い茂っており周りの景色は開けてはいないが、木々の間から真下にある天竜川が見える。 元亀3年の武田方との攻防時にどこから水を汲み上げていたのかななどと当時に思いをはせながら見て回った。

ギャラリー

二俣城図         ~クリックにて拡大画面に~


北曲輪
北曲輪には神社が建っており、その北隅に土塁の一部が残っている。

本丸虎口(喰い違い虎口になっている)

本丸(本丸虎口側から)
本丸は不整形な四角形で、西隅(写真奥)には10~12m平方程度で、高さ4m程の野面積みの天守台がある。 特別大きなものではないが、静岡県内の戦国期に築かれた城で石垣を積んだ天守台がある唯一の城址である。

二の丸から本丸を
手前が二の丸、奥が本丸。左奥に本丸虎口が。二の丸は本丸と一緒になっている。

本丸から眼下に天竜川
城のすぐ下を天竜川が流れているが、木々の間から僅かに見えるだけだ。

二の丸と蔵屋敷間の堀切

蔵屋敷

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コメント

BLUES(2014/05/10)

いつもありがとうございます

念願の念願の、二俣城を訪れてきました。
すばらしく堅牢だな。。。と感じました。
(でも鳥羽山のほうがすごかったです)

武田家がもうひとがんばり、二俣から南ー東を治めていたら・・・と思いながら、汗をかきかき歩きました。

土塁や堀切も絶妙な、合戦城とおもいました。

タクジロー(2014/05/11)

BLUESさま
初めて二俣城を訪れた時には天守台石垣が残っていて嬉しくなってきました。
また機会があれば、蔵屋敷や南曲輪の方もつっくり廻ってみたいと思います。

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