本丸跡下の築庭に立つ石碑と説明板
鯰江氏の居城、観音寺城を追われた六角承禎父子が籠って信長に対抗したことも
所在地
滋賀県東近江市鯰江町
【アクセス】
県道217号線「東近江大橋北詰信号」を約500m東進すると左手(北側)に築庭があり、そこに城址碑と説明板がある。「鯰江バス停」の真ん前になる。
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 宅地等
【遺構等】 土塁、石垣、石碑、説明版
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2011/02/23
歴史等
鯰江(なまずえ)城主の鯰江氏が、いつごろこの地に定住し、居を構えたのかは不明であるが、鯰江の地名は荘園名として鎌倉時代の文永5年(1268)にその名が見え、興福寺領の被官となってこの地を治めていたとされる。
戦国時代になり、鯰江氏は、佐々木六角氏の家臣として六角義弼(よしすけ)を奉じて織田信長の近江平定に対抗した、永禄11年(1568)の観音寺城の開城後には、鯰江城主鯰江満介貞景は六角承禎・義弼父子らを入れて織田信長に再度対抗しようと企て、土塁を高く築き、遠見櫓を増築し、堀を深くするなど大修築をしたが、天正元年(1573)信長方の佐久間盛政、蒲生賢秀、丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した。
落城後、鯰江氏は全国各地に分散し、各大名に仕えたという。特に鯰江定春は、秀吉に仕えて大阪に土地を与えられ、その地を「鯰江」と呼んだそうで、現在も大阪市城東区にその呼称が残っている。
『「現地説明板」、「日本城郭大系11」他より』
現況・登城記・感想等
県道217号線沿い本丸跡下に築庭がされ、そこに城址碑と説明板がある。道路の上(北側)の集落のあちこちに土塁が点在しているとのことで、集落へ車で入って行ったが、道が狭くて捜しきれなかった(汗)。
集落の住宅案内板を見たら「鯰江さん」がいっぱい!城主鯰江氏一族のご子孫のお宅なのだろう。また「城さん」もいっぱい。
そして、興味を持ったのが「位田さん」が多いこと。「位田さん」は、私の故郷四日市の西方(鈴鹿山麓)にある菰野町も「位田さん」が多い。菰野町は、鈴鹿山脈を挟んで、丁度、鯰江町の反対側にある。何らかの関係があるのだろう。
(2011/02/23訪れて)
ギャラリー
鯰江城は、軍事的には八風街道・高野街道を押さえる地にある。愛知川右岸の段丘崖上に築かれ、それなりに築城に適した地であったのが分かる。
昭和62年に発掘調査がされ、石積み等が確認されたそうだ。