三左衛門殿曲輪の石垣
松浦党一派波多氏17代400年の山城、後に寺澤氏により総石垣造りの城に
別名
鬼子城、吉志峯城、岸獄城
所在地
佐賀県唐津市(旧北波多村)北波多岸山
【アクセス】
国道202号「徳須恵上」信号を東へと県道52号に入り、500mほど東進しすると登城口まで案内板があるので、それに従って行けば登城口へ辿り着く。途中にも、登城できるところがあるが、道の行き止まりまで行くと駐車場があり、ここから登った方が近い。
形状
山城(標高320m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、石垣、堀切、竪堀、井戸、説明板、遺構案内板
満足度
★★★★☆
訪城日
2012/11/09
歴史等
岸岳城は、岸岳山頂部の尾根に築かれている。岸岳とは鬼子岳のことで、平安時代、この山が山賊の根拠となっており、麓の人々が「鬼の住む山」と恐れたことから付いた名という。
中世、この山に拠っていたのが、松浦党の一派波多氏である。波多氏は鎌倉時代、松浦郡宇野御厨の検校であった源久(ひさし)が、子の持(たもつ)に波多郷を譲り、持が波多氏を名乗ったものという。
それ以来、波多氏は17代約400年にわたって岸岳城に拠り、戦国時代には上松浦地方を支配するまでに成長した。
佐賀地方に勢力を持つ竜造寺氏が上松浦に進出してくると、一時、竜造寺隆信の配下となったが、天正12年(1584)隆信が没してのち、再び勢力を盛り返した。
天正15年(1587)、豊臣秀吉が島津氏を討つべく九州へ侵攻した時、波多氏当主波多親(ちかし)は、島津氏と通じていたため、豊臣軍に参加しなかったが、本領だけは安堵され、どうにか岸岳城主として生き残れるかにみえた。秀吉が寛大な処置をとったのは、中世を通じて倭寇として活躍した松浦党の海軍力を、来たるべく大陸侵略に利用しようとの目論見があったからではないかという。
文禄元年(1592)の朝鮮侵略(文禄の役)で、波多親も朝鮮半島へ渡海し、戦闘に参加したが、その際に「*臆病な振る舞い」があったとされ、翌年、常陸筑波山麓へ配流され、波多氏は滅亡した。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、唐津城主となった寺澤広高は、岸岳城を、総石垣造りの要害堅固な山城に再築城した。
当地では、波多氏改易を画策した豊臣政権と名護屋奉行で波多領を乗っ取る形となった寺澤氏への悪感情が強く、関ヶ原合戦時には広高の留守を狙って波多旧臣らが蜂起寸前に及んだ。また、広高は、慶長7年(1602)から同13年(1608)までの唐津城築城の間、統治に困難が予測される旧波多領中枢部の経営の陣頭指揮に立つためか、岸岳城西麓の島村城に仮居しており、その詰城の機能を岸岳城が担ったものと考えられる。岸岳城の過剰な装備は、この不穏な在地情勢と、旧波多領の統治に臨む広高の決意のほどを表した結果であろう。
しかし、元和元年(1615)の一国一城令により、岸岳城は廃城となった。
「*臆病な振る舞い」
「臆病な振る舞い」とは、何とでもこじつけられる理由であるが、これには裏があったといわれる。それは、波多親の妻「秀の前」は大変な美女で、好色な秀吉は、亭主の波多親が朝鮮へ出陣している間に、秀の前に名護屋城への出仕を命じた。秀の前はやむなく名護屋城へ出掛けたが、もしもの時を思い、懐に短剣を忍ばせていた。それが秀吉の怒りをかい、波多氏の滅亡につながったというものであるが、真相やいかに?
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「歴史読本・織田豊臣の城を歩く、2008年5月号(新人物往来社刊)」他より』
現況・登城記・感想等
岸岳は、標高は320mで、200mより上は切り立った急崖になっている。岸岳城は、その尾根上に総石垣造りで、連郭式に曲輪を配列し、延々1kmほどに渡って築かれている。尾根の幅は数メートルから、広い所で十数メートルしかない。
石垣の多くは、かなり崩落が進んでいるが、あちこちに石垣遺構が散見される。中でも、本丸の北側にある三左衛門殿曲輪の石垣は比較的良好に残り、折れも見られる。
また、岩盤を掘削した三の堀切や、石垣で構築した二の堀切なども良好に残り、二の丸には井戸跡まで見られる。
岸岳城は、以前、苔むした石垣の写真を見て以来、是非登城したいと思っていた城址でしたが、山の鋭さや遺構の充実ぶりなど、期待に違わず、見応え充分な素晴らしい山城でした。
(2012/11/09登城して)
ギャラリー
岸岳城縄張略図(現地説明板より)
さあ、登城!!
岸岳城は、標高は320mで、200mより上は切り立った急崖になっており、その山頂部の尾根上にあるが、車で、随分、山の上の方まで登って行けます。登城口と駐車場は途中、何箇所かにある。一番上(行き止まり)の駐車場に車を置いて、永年の念願だった岸岳城へ登城です。写真右上の案内板が立っているところが登城口です。
窯跡??
登城口から6~7分歩くと、このような石組みが・・・。炭焼き窯の跡だろうか? 岸岳城山麓には、創始期唐津焼窯が点在し、当城との密接な関係が推察されるというが、まさか、その窯ではあるまい(笑)。
分岐点
登城口から登ること10分強で尾根の上に出る。登城口からの比高差は50mほどです。ここは、「旗立て岩」との分岐点になる。いずれも、岩・岩・岩といった感じの道です。まずは、本丸方面へ向かって歩くが、岸岳城はここからが長いんです。何と、三の丸、二の丸、本丸、三左衛門殿丸を通り、東端の姫落としまで、この尾根が1kmも続くのです。
三の堀切
分岐点から4~5分ほど歩くと、三の堀切へ出ます。堀切には、木橋が架けられています。
三の堀切を下から
堀切は、岩盤を掘削したもので、迫力があります。勿論、堀切は、そのまま竪堀となって山裾へと落ちて行っています。この写真は、滑り落ちそうになって、撮るのに結構苦労しました(苦笑)。
三の丸
三の堀切を渡ったところからが三の丸です。三の丸は、結構広い上、高低差はあるが、遺構等、あまり見るべきものはないようでした。
二の堀切
三の丸と二の丸間には二の堀切があります。こちらの堀切は、近世城郭のようなしっかりとした石垣で壁面が構築されています。
二の丸へ
二の丸へ入ると、石垣や崩落して転がっている石が散見されるようになります。
二の丸の石垣の一部
伝埋め門
二の丸には「伝 埋め門」なるものがあったが、私には、どうも「埋め門跡」には見えなかったが・・・?
井戸跡
二の丸内には、井戸跡が残っている。こんな岩山の山頂部に井戸とは、有難かったことでしょう。
大手門跡
二の丸の東端には大手門跡はあるが、ほとんど崩れており、気を付けて見なければ見逃してしまいそうです。
本丸
本丸は、さすがに削平もしっかりしていて、幅も広い。ただ、廃城時に徹底的に破城されたのか、崩れて転がった石がやたらと目につき、まとまった石垣がほとんど確認できなかった。
本丸の石垣と転がる石
本丸に唯一残る石垣
本丸の東端に、唯一(だと思います)、本丸のある程度まとまった石垣が残っている。尤も、これもかなり崩壊しているが・・・。
三左衛門殿曲輪の石垣①
遂に見つけました。私が、以前、写真で見た苔むした石垣です。この石垣が、城内で最も見事な石垣です。
三左衛門殿曲輪の石垣②
この石垣には、折れも見られます。
三左衛門殿曲輪の石垣③
側面に廻って撮ったものです。この辺りも、よく残っています。
姫落としへ向かう
三左衛門殿曲輪から姫落としまでは、細い尾根を下りたり、登ったりして辿り着きます。
姫落とし岩
岸岳の東端部は、高さ100mを超す急崖になっており、そこに姫落とし岩という巨岩が、いつ崩れ落ちても不思議ではない感じで乗っかっています。一緒に登城したN澤氏は、高所恐怖症気味だそうで、完全にへっぴり腰です(笑)。
姫落とし岩の上からの眺望
姫落とし岩の上からの光景は素晴らしく、遠く佐賀・伊万里方面を望むことができるそうだが、11月中旬の割には比較的暖かったせいか、靄っていてそこまでは・・・。
伝抜け穴
姫落とし岩の横には、岸岳城の抜け穴と伝えられる穴がある。一説には、軍用金を埋蔵した場所とも伝えられるそうです。
鬼子岳末孫之碑
さらに、その傍には「鬼子嶽末孫之碑」が建てられている。付近には「鬼子嶽末孫伝説」なるものが語り伝えられているそうです。
伝旗竿石
分岐点に戻ってから、今度は岸岳の西端部の「旗竿石」へ。こちらも、その下は絶壁になっており、玄界灘を一望でき、城の物見の場所といわれている。岩の上に直径数cmの丸い筒状の穴があり、これに旗幟を立てていたよいう。今はポールのみが立っていた。