復興大手門
伊東氏の城下町・飫肥は今も石垣のある武家屋敷が残る小京都の佇まい
別名
舞鶴城
所在地
宮崎県日南市飫肥
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 公園、資料館、飫肥小学校等
【遺構等】 曲輪、石垣、堀、復元大手門、書院、門、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2006/07/29
歴史等
飫肥の地名は平安時代の「倭名類聚抄」に宮崎郡飫肥郷としてその名があることから、古くから開発の進んだ場所であったと考えられる。また、南北朝期の「長谷場文書」には、水間栄証・忠政親子が城郭を構えて抵抗したことが記されていることから、南北朝期には飫肥に城か築かれ、在地領主間の抗争が激化してきたことが伺える。
一方、日向の都於郡城(とのこおりじょう)を構えて勢力を拡げてきた伊東氏と、都城や飫肥を勢力下におく島津氏との争いが何代にもわたって続いた。なかでも伊東義祐は、天文10年(1541)から永禄11年(1568)までの28年間の歳月をかけて飫肥を攻略し、ついに飫肥領主となり、次男の祐兵を飫肥城主とした。この間、飫肥城を中心とした丘陵一帯は城砦として整備されたと見られる。
しかし、元亀3年(1572)の「木崎原の合戦」で島津軍に大敗した伊東氏は大友宗麟を頼って豊後に落ちた。さらに大友氏も島津氏との争いで敗れたため、伊東氏は河野氏を頼って四国に渡るが安住できず、伊東義祐は大坂の堺浦で病死する。次男の祐兵は播州姫路で秀吉に仕えることになり、その後、天正15年(1587)に、豊臣秀吉の九州攻略で案内役を努めた功で飫肥の地を与えられ、天正16年(1588)伊東祐兵が飫肥城に入城た。以後、幕末まで一度の改易もなく伊東氏が飫肥を支配した。
その間、寛文2年(1662)・延宝8年(1680)・貞享元年(1684)の相次ぐ大地震によって、飫肥城本丸に大きな被害が発生したため、貞享3年(1686)から元禄6年(1693)にかけて、石垣を多用した近世的な城館に改築され、現在残されている縄張りとなった。尚、このとき本丸(旧本丸)に地割れが発生し、現在の本丸に移した。
『飫肥歴史紀行(財団法人・飫肥城下保存会刊)より』
現況・登城記・感想等
幕末は、江戸よりも地方の時代であったと云えるであろう。とりわけ学問においてその傾向があったようである。中でも、この飫肥は伊予宇和島とともに学問が盛んで、明治外交の巨星・小村寿太郎等を輩出している。というわけで、飫肥の武家屋敷や城址には以前から非常に興味があり、是非登城したい城であった。
猛暑の中、まずは飫肥城の象徴である復元された大手門へ。大手門は昭和53年6月に樹齢百年の飫肥杉を使用し、釘を使わない「組み式」で復元されたそうである。大手門を入ると結構広い枡形になっている。そこから本丸方面へ石段を登って行く。この近辺が石垣が一番多く見られる。特に、左側の松尾の丸の苔むした石垣が実にいい。松尾の丸は昭和54年に、江戸時代初期の藩主の書院造りの御殿として、京都二条城などを参考に造られたそうである。
本丸跡は小学校の運動場になっているが、旧本丸への石段を登り、枡形虎口とその向こうに広がる旧本丸の情景は往時を偲ばせてくれる。旧本丸跡の北側に城門が建っているが、これも復元したものだろうか?
他にも、武家屋敷や、藩主が明治になって移り住んだ豫章館、旧藩校・振徳堂等々見どころはあるが、期待が大きすぎたせいもあり、大満足というわけにはいかなかった。(2006/07/29登城して)
ギャラリー
飫肥城の図(入場券)
大手門(復興)
明治時代初めに取り壊されたが、昭和53年(1978)に飫肥城復元事業の第二期工事tとして歴史資料館とともに復元建設された。復元に際しては、国内に現存する大手門を参考に在来工法で行った。木造渡櫓二階建てで、高さ12.2m。建築材は樹齢100年の飫肥杉4本が使われた。
大手門前の空堀
大手門礎石
大手門復元工事中に、礎石に刻まれた正徳3年(1713)銘の碑文が発見され、大手門内側に置かれていた。
大手門枡形
松尾の丸の石垣
苔むした石垣は野面積みか打ち込みハギの石垣が多いと思う。苔むした切込みハギの石垣って珍しい気がするがどうでしょうか?なかなかいいですね。
松尾の丸
昭和54年(1979)に、江戸時代初期の藩主の書院造りの御殿として、京都二条城などを参考に造られた。
本丸への石段
この石段も、「いざ登城」って感じでいいですね。
本丸跡
飫肥小学校の運動場になっている。
旧本丸への石段
この辺りの風情が実にいい。また石垣も見応えがある。
旧本丸枡形虎口
旧本丸跡
旧本丸北側に建つ城門
武家屋敷
飫肥の武家屋敷の特徴は、各街路に面して飫肥石の石垣を築き、その上にお茶などの植栽を行う。
旧藩校 振徳堂
天保2年(1831)に13代藩主・祐相が建てた。藩校の敷地の外回りには高さ3mを超える切石の石垣が積まれ、南向きの入口は長屋門を構えている。飫肥藩の中小姓以上の藩士の師弟は入校が必須で、それ以外は任意であった。明治の大外交官・小村寿太郎などを輩出している。
小村寿太郎生家
小村寿太郎は飫肥城下の町役人の長男として生まれた。その後、小村家が破産したため、明治後期に、生家は振徳堂の裏に移築され、さらに大正10年(1921)に現在地に移築された。
豫章館
旧飫肥藩主・伊東祐帰と父の祐相が明治2年(1869)に城内から移り住んだ屋敷で、庭の北隅に大きな楠があったことから豫章館と名付けられた。
豫章館庭園