古河公方名跡を継いだ喜連川公方は10万石格大名として江戸期を
所在地
栃木県さくら市喜連川(さくら市喜連川庁舎)
形状
陣屋
現状・遺構
現状:さくら市喜連川庁舎、公民館等
遺構等:模擬大手門、説明板
満足度(10点満点)
1点
訪城日
2007/06/03
歴史等
天正18年(1590)豊臣秀吉が関東の大勢力・小田原の北条氏を滅ぼし、実質上全国を平定したとき、関東・
東北の諸大名等は相次いで秀吉に従順を誓った。ときの城主塩谷惟久も、人員その他の物資の調達を命じられたが、
その機を失してこれに応じなかった為、秀吉の怒りを恐れて出奔した。ここに、およそ400年続いた喜連川塩谷氏も17代惟久で終った。
しかし、惟久の妻・島子は、秀吉が古河に進出した折、出向いて惟久に二心のないことを釈明した為、秀吉は島子の懇願を聞き入れ、
名門足利氏の断絶を惜しんで古河公方家(喜連川に移って喜連川公方)を再興させ、大蔵ケ崎(喜連川)
城を喜連川足利氏の所管とした。島子は古河公方の子孫であり、秀吉は島子の弟・
国朝と古河公方義氏の娘である氏女を結ばせ喜連川氏を継がせたが、山城は不便として、喜連川公方2代目の足利頼氏のときに、お丸山下
(現在の市庁舎・公民館等の敷地)に館を構えた。
館は明治9年(1876)に焼失した。そして平成3年に模擬大手門が建てられた。
『「喜連川城説明板」、「現地説明板」より』
現況・登城記・感想等
さくら市喜連川庁舎に大きな模擬大手門が建っている。二階が展示室になっているらしいが、日曜日で入れなかった。
それから関係ないけど、「喜連川」という伝統ある町名の前に「さくら市」という安っぽいというか俗っぽい市名がつくのはちょっとなあ・・・・
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(2007/06/03訪れて)