那須七騎・大関氏、江戸期を通じ295年間の本拠
別名
大関城
所在地
栃木県大田原市黒羽町前田
形状
平山城(崖端城)
現状・遺構
現状:黒羽城址公園
遺構:曲輪、土塁、空堀、水堀、模擬望楼、石碑、説明板
満足度(10点満点)
8点
訪城日
2007/06/03
歴史等
黒羽城は、天正4年(1576)戦国武将大関高増が新たに築いて、白旗城(黒羽町余瀬)
より移った。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際し、大関資増(高増子息)は他の那須衆と同様に徳川氏に味方して、
黒羽城において上杉景勝の動きに備えていた。その際、徳川方から軍事援助(加勢の入城と武器供与)があり、また、黒門・中門・
北坂門などが新たに設けられ、塀・築地が構えられるなど修築が加えられた。
その後、大関氏は一度の改易・転封もなく明治4年(1871)の廃藩置県までの295年間黒羽城を本拠とし続けた。
これは関東の外様大名としては、大田原氏と共に極めて異例のことであった。
但し、黒羽城は、宇都宮・壬生・烏山・大田原などの諸城とは異なり、江戸幕府からは陣屋という評価を受けていた。
『現地説明板(2箇所)より』
現況・登城記・感想等
私にとって、北関東の戦国時代の諸大名は、いずれも上杉氏・武田氏・後北条氏の抗争の波の中で、生き残るために、あえぎもがきながら、
謀略と裏切りを繰り返していたというイメージが強い。中でも、大関高増はその筆頭である。そんな大関氏が、
よく明治まで生き残れたものだというのが登城前までの感想で、決してイメージは良くない。
さて黒羽城であるが、これが実に素晴らしい。ましては黒羽城は陣屋と位置付けられていたとのことであるが、とんでもない。
まず会所跡の駐車場に車を停めると、その周りが土塁や水堀のオンパレード。しかし、そんなのは序の口だった。
登城口を入って行くと、いきなり深くて広い、しかも折がある姿のよい空堀に出会う。その上に架かる橋を渡ると、
本丸への枡形虎口が待ち構えていた。石垣が使われずに、これだけ大掛かりな枡形虎口は見たのは初めてではないだろうか?
そして本丸に入ると本丸が実に広く、高い土塁が周りを囲んでいる。本丸の一番奥(北側)土塁上に、望楼が建っている。
北側土塁下は絶壁になっている。
本丸西側の虎口を出て、堀底へ降りて見上げると、その空堀の深さと広さに感激する。本丸土塁上まで15mはあるであろう。
また幅も20mほどあるのでは?その堀の上に橋が架かっている。橋をくぐってさらに進んでいくと、堀底の一部が少し高くなって、
障子堀というほどではないが、その向こうは水堀になっている。
次に、この上に架かっている橋の上に行った。ここから見る、深くて広い空堀とそこに架かる橋の光景もなかなかのものである。
橋を渡り三の丸に向かうと、もう一つ、立派な空堀があり、その向こうが三の丸である。三の丸には「芭蕉の館」というのがあり、
かなり破壊されてしまったのか遺構はよく分からない。
二の丸はかなり広かったようであるが、現在「黒羽町山村開発センター」の建物が建っている。
黒羽城は、とても1万8千石の大名の城とは思えないほど大規模なものであった。
(2007/06/03登城して)
ギャラリー
駐車場(会所跡)周りの土塁や水堀
駐車場傍の道端に残る水堀
本丸枡形虎口手前空堀に架かる橋 ~クリックにて拡大画面に~
登城口を入って行くと、いきなり深くて広い、しかも折がある姿のよい空堀に出会い、
その上に橋が架かっていた。(虎口側から撮影)
本丸枡形虎口手前空堀(橋の上から両側の堀を撮影)
本丸枡形虎口 ~クリックにて拡大画面に~
橋を渡ると、本丸への枡形虎口が待ち構えていた。石垣が使われずに、
これだけ大掛かりな枡形虎口は見たのは初めてではないだろうか?写真左には井戸が残っていた。
㊧本丸と㊨本丸土塁上に建つ模擬望楼 ~㊧写真はクリックにて拡大画面に~
本丸に入ると本丸が実に広く、高い土塁が周りを囲んでいる。本丸の一番奥(北側)土塁上に、
望楼が建っている。北側土塁下は絶壁になっている。
本丸西側の空堀底から ~クリックにて拡大画面に~
本丸西側の虎口を出て、堀底へ降りて見上げると、その空堀の深さと広さに感激する。
本丸土塁上まで15mはあるであろう。また幅も20mほどあるのでは?
㊧空堀底から左上に本丸土塁を見上げる、㊨左写真の奥は水堀に
~両写真共クリックにて拡大画面に~
橋をくぐってさらに進んでいくと、
堀底の一部が少し高くなって、障子堀というほどではないが、その向こうは水堀になっている。
本丸西の三の丸側の空堀(本丸と三の丸の間は二重堀になっている)