白旗城(大田原市)

室町期から戦国期にかけての那須七騎・大関氏の居城

所在地

栃木県大田原市黒羽町余瀬

形状

山城

現状・遺構

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、碑、説明板

満足度(10点満点)

歴史等

白旗城は、室町時代から戦国時代にかけての大関氏の拠点で、応永期(1394~1428)に大関増清が松野(馬頭町)より移り、 天正4年(1576)に大関高増が黒羽城に移るまでの居城である。
那珂川支流の湯坂川沿いの南北に連なる白旗丘陵南端部(標高200m前後)を利用したもので、南北約500m、 東西約150mの連郭式山城である。本城(本丸)、北城(二の丸)などの曲輪が空堀と土塁によって区画されている。
麓に東山道(中世には関街道)が通じ、粟野宿(余瀬の集落)があり、交通・軍事の要衝の地であった。
白旗の名は、源頼義が奥州の阿部頼時を攻めた時、ここで白旗を翻して、軍揃え(いくさぞろえ)をしたことに拠るという。又、 余瀬という地名については、当地で軍勢を寄せ集めたことから、寄勢と称され、後で余瀬と改められたともいう。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

登城道入口から既に藪だらけ。それでも膝くらいまでなので、蛇(特にマムシ)の恐怖にも打ち勝って登り始めた。 すると蛙がやたらと跳ね始めた。あまり気持ちのいいものではない。
50mほど登り、何とか最初の虎口を見つけ、小さな削平地(墓地)に出た。多分何らかの曲輪跡であろう。藪がひどくて分かり辛いが、 奥は切岸になっている。しかし、そこから上へは2箇所の道らしき所があるが、藪の高さは胸の辺りまであろう。とても入って行く勇気は無い。
一旦、元の所へ戻り、他に道が無いか捜したが、やはり無い。残念無念!!ギブアップ!!!
そう言えば、削平地(墓地)にあった墓は「阿久津家之墓」となっていたなあ。先輩阿久津さんを思い出した。やっぱり疫病神だ!!。 ゴメンナサイ阿久津さん、何かに当らないと虫が治まらないタクジローでした。
(2007/06/03訪れて)

ギャラリー

登城口
登城道入口から既に藪だらけ。それでも膝くらいまでなので、蛇(特にマムシ) の恐怖にも打ち勝って登り始めた。すると蛙がやたらと跳ね始めた。
 

虎口(登城口から50mほど登り、何とか最初の虎口を見つけた)

曲輪跡?(墓が2基)      ~クリックにて拡大画面に~
藪がひどくて分かり辛いが、奥は切岸になっている。この切岸の上が義経塚らしい。
左側の墓は「阿久津家之墓」となっている。疫病神?! 阿久津さんの怨霊?! そのせいか、写真のとおり、この上には行けそうにない。

削平地(墓場)からの道は?!    ギブアップ!!!
削平地から上へは2箇所の道らしき所があるが、藪の高さは胸の辺りまであろう。とても入って行く勇気は無い。
 

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント