下野 喜連川城(さくら市)

一ノ堀(一郭と二郭の間)に架かる橋

喜連川塩谷氏400年の居城も、秀吉の怒りを恐れて出奔

別名

大蔵ケ崎城、蔵ケ崎城、倉ケ崎城

所在地

栃木県さくら市喜連川5978(お丸山公園)

形状

平山城

現状・遺構等

現状:お丸山公園
遺構等:曲輪、土塁、堀切、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2007/06/03

歴史等

大蔵ケ崎城(喜連川城)は、荒川と内川に挟まれ、しかも両側が急傾斜になっている。 喜連川丘陵突端の要害を巧みに利用した中世の代表的な連郭式の山城である。塩谷惟広は源義家の孫頼純を祖とし、源平合戦(1185) に源義経の軍に従って出陣、一ノ谷及び屋島の戦に功を立てたので、源頼朝から塩谷の里(小入、乙畑、大槻、早乙女、松山、喜連川・葛城等々) 3千町を領地として与えられ、文治2年(1186)ここに大蔵ケ崎城を築いた。
丘陵は幅が狭く、更に防備を強固にするために空堀を構築したが、特に一の堀と二の堀は深く掘られてあり、 構築にはかなりの歳月を要したものと思われる。各空堀とも堀の東側が堀切に沿って土塁が築かれてあり、一の堀は直線、二の堀はS字型、 三の堀は鍵の手型と、それぞれ工夫をこらした空堀は大蔵ケ崎城の特徴である。また、四の堀は北から沢が入り込み、 城を防衛する上でよい条件になっていた。
天正18年(1590)豊臣秀吉が関東の大勢力・小田原の北条氏を滅ぼし、実質上全国を平定したとき、関東・ 東北の諸大名等は相次いで秀吉に従順を誓った。ときの城主塩谷惟久も、人員その他の物資の調達を命じられたが、 その機を失してこれに応じなかった為、秀吉の怒りを恐れて出奔した。ここに、およそ400年続いた喜連川塩谷氏も17代惟久で終った。
しかし、惟久の妻・島子は、秀吉が古河に進出した折、出向いて惟久に二心のないことを釈明した為、秀吉は島子の懇願を聞き入れ、 名門足利氏の断絶を惜しんで古河公方家(喜連川に移って喜連川公方)を再興させ、大蔵ケ崎城を喜連川足利氏の所管とした。 島子は古河公方の子孫であり、秀吉は島子の弟・国朝と古河公方義氏の娘である氏女を結ばせ喜連川氏を継がせたが、山城は不便として、 喜連川公方2代目の足利頼氏のときに、お丸山下(現在の市庁舎・公民館等の敷地)に館を構えた。
『現地説明板(2箇所)より』

現況・登城記・感想等

大蔵ケ崎(喜連川)城址は「お丸山公園」となっている。山頂は市民の憩いの広場になっており、また、展望タワーや福祉センター 「喜連川城」、町営温泉「喜連川城」、お土産センター等々の施設があり、多くの人で賑わっていた。
しかし、堀切や土塁などの城址遺構もよく残っており気持ちよく散策できる。比高差70m程度で、山頂へは歩いて登っても良いが、車でも、 シャトルエレベーターでも登ることが出来る。私は珍しいので、登りはシャトルエレベーターで登って、各郭を見ながら歩いて降りてきた。
城は各郭が堀切で分けられた典型的な連郭式山城であるが、その堀切が、最大の見所であろう。特に、一の堀と二の堀は圧巻である。深くて、 幅もあり、きれいに整備されており、堀切に架かる朱色の橋とも相俟って見事な造形美を醸し出している。
郭は、東から四郭・三郭・二郭・本丸となっているようであるが、最も深い一の堀と二の堀に挟まれた(守られた) 二郭が本丸なのではという感じがしたが、如何なものでしょうか?
(2007/06/03登城して)

ギャラリー

喜連川城絵図          ~クリックにて拡大画面に~

山麓から仰ぎ見る(赤い橋は一の堀の橋)   ~クリックにて拡大画面に~

シャトルエレベーター
呼びボタンを押したら、 予想外の大きなシャトルエレベーターが降りてきたので驚いた。

四郭
展望タワーや福祉センター「喜連川城」 、町営温泉「喜連川城」、お土産センター等々の施設がある。

㊧三の堀に架かる橋、 ㊨橋の傍に孔雀が ~両写真共クリックにて拡大画面に~
三の堀は、それほど深くない。橋の畔には孔雀が。
 

㊧三郭、 ㊨三郭隅には土塁が
シャトルエレベーターを降りた右側は、三郭で、 そこは市民の憩いの広場になっており多くの家族で賑わっていた。また、その南西隅には、土塁がはっきり残っていた。
 

㊧二の堀に架かる橋、 ㊨二の堀     ~両写真共クリックにて拡大画面に~
シャトルエレベーターを降りると、すぐ左側に、 非常に深くて幅も広い二の堀があり、その上には朱色の橋が。
 

㊧二郭、 ㊨二郭北東部の枡形状の土塁等
最も深い二の堀と一の堀に挟まれて(護られて) いるのが二郭ということになっているらしいが、当初はこれが本丸かと思った。北東隅には大きな枡形のような方形の曲輪?があったが?・・
 

㊧一の堀に架かる橋、 ㊨一の堀     ~両写真共クリックにて拡大画面に~
この一の堀が二の堀の次に深くて幅も広い。 ここからの光景が、この城址の最大の見所かもしれない。
 

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