武蔵 世田谷代官屋敷(世田谷区)

世田谷代官屋敷(右が表門、左奥が母屋)

石橋山の戦で有名な大庭景親の末裔大場氏が井伊氏の代官となり築いた屋敷

所在地

東京都世田谷区1-29-18(世田谷区郷土資料館)

形状

屋敷

現状・遺構等

現状:世田谷区郷土資料館ほか
遺構等:母屋、表門、白州跡、白州門、土蔵、井戸、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2011/01/12

歴史等

大場氏は、相模国の豪族・桓武平氏大庭氏の末裔と伝えられる。
「石橋山の戦い」で有名な大庭景親が源頼朝の平氏追討軍と戦って敗れた後、その遺児は三河国に逃れ、東条吉良氏に属した。
数代を経た後、主家吉良氏に従って東下し、世田谷の地に定住したという。
大場家の始祖とされる大場信久は「吉良四天王」と称される吉良家重臣であったが、天正18年(1590)、 豊臣秀吉の小田原征伐で吉良氏と姻戚関係のあった後北条氏が滅亡した後は、世田谷新宿(現・上町)に留まって帰農した。
徳川家康の関東入封後、検地の代行を命じられ、さらに、寛永10年(1633)、彦根藩主井伊家が世田谷領15ケ村(後に20ケ村) を拝領した際に、信久の孫盛長は代官に任ぜられた。
以後、明治4年(1871)の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ、領内を統治してきた。
世田谷代官屋敷は江戸中期の建築で、代官所の中心である母屋は約70坪、茅葺きの寄棟造りで、茅葺きの表門、土蔵、 白州跡などの一部が今も現存し、往時の面影を伝えている。
『「世田谷区郷土資料館パンフレット」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

代官屋敷も広義で城といえるということで掲載することにした。
世田谷代官屋敷は、母屋をはじめ、表門や土蔵などが残り、往時の面影が残っている。
敷地内には世田谷区郷土資料館が建っているが、資料等がかなり充実しており、世田谷区内の歴史を学習できる。また、 今も大場家当主信秀氏が一画に住んでおられるようだ。
代官屋敷の前の通りは、毎年12月15・16日と1月15・16日に「世田谷のボロ市」が開かれ「ボロ市通り」の名があるようだ。
(2011/01/12訪れて)

ギャラリー

表門
長屋門・寄席棟造り・茅葺きで、桁行7.0m、梁間3.7m、面積25.9m。母屋(主屋)とともに、 近世中期の代表的上層民家として旧態を良く「保存し、貴重な建造物であるとの理由で、 昭和53年に住宅建造物としては都内で初めての重要文化財に指定された。尚、この前の通りは、毎年12月15・16日と1月15・16日に 「世田谷のボロ市」が開かれ「ボロ市通り」の名があるようで、表門の脇には、屋敷の説明板とともに、「世田谷のボロ市」 の説明板も設置されている。

世田谷のボロ市

母屋(主屋)
母屋は寄席棟造り・茅葺きで、桁行17.33m、梁間11.03m、面積191.15m。天正の初め頃、 世田谷吉良氏の重臣大場信久が、現在地に居を移した。現在の建物は、信久から7代目の盛政が元文2年(1737)に建て替えた時のが初見で、 その後、何箇所か改変・改修がなされている。

土蔵

白州跡

白州通用門

井戸
母屋の裏側に、「ここから立入り禁止」となっているだけで、案内板もなく、 往時のものかどうかは分からないが井戸があった。

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