武蔵 河越氏館(川越市)

常楽寺の前に立つ標柱

武蔵の名門、秩父氏の一族・河越氏の城

所在地

埼玉県川越市上戸192-1(常楽寺)

形状

館(平城)

現状・遺構等

現状:常楽寺、宅地他
遺構等:土塁、堀、標柱、説明板

【国指定史跡】
指定日:昭和59年12月6日
指定理由:鎌倉時代から南北朝時代にかけて有力な関東武士であった河越氏の城館。中世武家政権を支えた在地領主の実態を究明するうえで、 きわめて重要。
面積:4万8,269㎡
資料館:川越市立博物館に出土資料の一部を展示

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2003/11/15

歴史等

河越氏は武蔵の名門として知られる秩父氏の一族の出で、平安末期から鎌倉時代にかけての12世紀前半、 重隆のときに入間川流域に進出し、河越荘の荘官となった。文治元年(1185)に、重頼が源頼朝に誅され勢力をそがれたが、その子・ 重員は武蔵国留守所総検校職に任じられた。
南北朝時代には河越氏は平一揆という武士団を結成し「観応の擾乱」 前後にも活躍した。
しかし、応安元年(1368)に鎌倉府に氾濫を起こして制圧され没落した。
この河越氏の居館のあった所がこの場所で、時宗の常楽寺はもと持仏堂が発展したものと推定されている。 かつての居館をめぐらせた方二町の土塁のうち西・北部が現存する。昭和46年以来、 数次にわたる発掘調査が続けられ全国的にみても極めて稀で貴重な中世豪族の居館の全容が漸次明らかになりつつある。
『参照:日本の史跡6中世(同朋社刊)、現地説明板』

【観応の擾乱】
観応の擾乱とは,南北朝期におこった「室町幕府の内部抗争(足利直義と高師直の対立。それを傍観しているようにしか見えない足利尊氏。 結局漁夫の利で尊氏の勝ち)」で、1349年から1352年まで続いた。
『日本の史跡6中世(同朋社刊)より』

現況・登城記・感想等

常楽寺を囲む方一町が館の主要部と考えられており、地上の遺構は西辺から北辺に鍵の手に延びる土塁、 常楽寺の北側に延びる堀が遺構として現存しているとのことであるが、見逃してしまった。
もう一度行って、土塁や堀跡を再確認してみようかな。
(2003/11/15訪問後)

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