武蔵 岡部氏館(深谷市)

普済寺の北東にある櫓台風の土塁、上には稲荷神社の祠が

武蔵七党の一つ猪俣氏の流れを汲む岡部氏の館

所在地

埼玉県深谷市負普済寺字古城973 (普済寺から厳島神社・六弥太忠澄の墓一帯)

形状

現状・遺構等

現状:普済寺、畑地、宅地等
遺構等:土塁、櫓台?、岡部一族の墓(五輪搭)及び説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2009/09/06

歴史等

武蔵七党の一つ猪俣党の猪俣忠綱が榛沢郡岡部に居住し、岡部と称した。
普済寺周辺は、古城という字名が示すように岡部氏の館跡と伝わる。
忠綱の孫・六弥太忠澄は、源義朝の家人として、熊谷直実、斎藤実盛、猪俣小平六など源氏17騎の一人として、保元・平治の乱に活躍した。
その後、源氏の没落により岡部にいたが、治承4年(1180)、頼朝の挙兵とともに出陣し、はじめ木曽義仲を追討し、その後平氏を討った。
そして、その後の奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の際にも家人313人の中に忠澄の名が見える。
その子孫はその後、足利尊氏や鎌倉公方に従ったが、永享の乱(古河公方館参照) では鎌倉公方足利持氏と共に自刃している。
また、戦国時代に入り、後北条氏の支配期には後北条氏の重臣松田氏に従い、後北条氏の滅亡後には徳川家に仕え、 後に1500余石の旗本として幕末まで続いた。
『「六弥太忠澄の墓説明板」、「中世武蔵人物列伝・埼玉県立歴史資料館Ⅱ編(さきたま出版会刊)」、「サイト・城跡ほっつき歩記」他参照』

現況・登城記・感想等

普済寺から厳島神社・岡部一族墓地一帯が岡部氏館跡とされる。
普済寺には岡部忠澄が植えたと伝えられる推定樹齢800年の2本のカヤの木が聳えている。
普済寺の北約200mには岡部氏一族の墓(五輪搭)があり、その西(裏側)約50mの個人宅傍に土塁が残っている。
また、普済寺の北東約300mの厳島神社の手前にも櫓台のような土塁があり、稲荷神社が鎮座している。
(2009/09/06訪れて)

ギャラリー

普済寺
岡部氏の菩提寺である普済寺には、 岡部忠澄が植えたと伝えられる推定樹齢800年の2本のカヤの木が聳えている。

岡部氏一族の墓
普済寺の北約200mには岡部氏一族の墓地があり、鎌倉時代の典型的な五輪搭が6基並んでいる。 右から2番目の中央の最も大きいものが岡部六弥太忠澄の墓(高さ約1.8m)で、その右側が父行忠、左側が夫人玉の井の墓といわれている。

土塁
西(裏側)約50mの個人宅傍に土塁が残っていたが、この土塁なんか、小頭@和平さんの「サイト・ 城跡ほっつき歩記」を見ないで出掛けたら、まず気が付かなかっただろう。

櫓台風の土塁(右)と厳島神社(左奥)
普済寺の北東約300mの厳島神社の手前の畑の真ん中に櫓台のような土塁があり、稲荷神社が鎮座している。

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