館跡の空堀前に建つ説明板
新田氏一族世良田氏の館
別名
世良田義政館
所在地
群馬県太田市(旧尾島町)世良田町3119他
長楽寺(TEL:0276-52-1035)の裏(西側)の公園一帯
形状
館
現状・遺構等
現状:歴史公園、長楽寺他
遺構等:土塁、堀、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/02/28
歴史等
世良田館跡は、世良田山長楽寺の西に立地し、古くから新田氏一族世良田氏の館跡と伝えられている。
北西約300mには新田氏の祖新田義重の館跡と伝わる1辺2町(約220m)の新田館跡(総持寺)がある。
世良田館跡は、「世良田村旧蹟案内」に「世良田義政館址」として記載されている。
昭和62・63年に発掘調査を行い、東辺郭と北辺郭の堀の一部、さらにそれより古い小溝等を検出した。
堀の規模は、北辺部で幅約6m・深さ約3mとなり、東辺部では、北東コーナーより約30mまでが幅約6m・深さ約3mとなる。それより南は、
規模が縮小され幅約4m・深さ約2.5mとなる。東辺部の堀の全長は約100mであり、南際で東側に屈曲し、
長楽寺の長堀と重なり確認できなくなる。(深さは、表土からの深さ)
小溝は、幅約1m・深さ約1mの規模であり、当初中世世良田郷内を区画した溝と考えられる。東辺・
北辺部の堀は小溝と同じ方向に掘られている。
南辺部は、地山の土塁状の高まりが検出できたが、北辺・東辺郭の堀のような明確な区画はなく、長堀から約30m離れたところに幅約3m・
深さ約1m・長さ15m以上の浅い溝が確認できたのみである。西辺部および内部構造は未調査のため詳細は不明である。
堀及び遺跡の性格については、発掘調査面積が狭いため、中世の館跡としての決め手に欠けているが、伝承により世良田館跡とする。
出土遺物は、東辺部の堀の屈曲部より、嘉元3年(1305)9月18日比丘尼念阿と刻まれ、全長1mの板碑と正慶元年(1332)
10月8日比丘尼運性と刻まれ、文字に金泥が残る全長1・65mの板碑が出土している。
また、館跡の時期より新しくなるが、板碑片6段を基部(石組みの底)に積んだ石組みの井戸が検出されている。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
世良田館というと、隆慶一郎氏の「影武者徳川家康」が思い起こされる。家康が征夷大将軍になるため?の、こじつけであろうとは思うが、
世良田は徳川氏発祥の地ということになっているし、隆氏はおそらくここから影武者の名前を「世良田二郎三郎元信」としたのであろう。
この本は非常に面白かった。
さて、世良田館跡であるが、完全に特定出来ているわけではないが、長楽寺と世良田東照宮の裏(西側)の公園一帯がそうらしい。公園は、
非常によく整備された芝生の公園で、北から南に向かって復元された堀があり、長楽寺や東照宮との間には土塁らしきものもある。
また、長楽寺の太鼓門・勅使門等々や、東照宮もなかなか見応えがある。東照宮には「徳川氏発祥の地」の幟が何本もたっている。
(2008/02/28登城して)
ギャラリー
堀跡(公園北東部)
堀跡(公園中央東部)
土塁?
長楽寺太鼓門
長楽寺蓮池・渡月橋・勅使門
世良田東照宮と幟