本丸南西部の満々と水を湛えた堀、堀の向こう岸が本丸跡
上杉謙信が攻め落し、後に新井白石を出す新井氏が居城
所在地
群馬県前橋市粕川町女渕(女渕城址公園)、龍光寺の約200mほど北
龍光寺:粕川町女渕1160、電話027-285-3433
形状
平城
現状・遺構等
現状:女渕城址公園、宅地ほか
遺構等:曲輪、土塁、水堀、土橋、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/12/20
歴史等
女渕(おなぶち)城は、いつ、誰によって築かれたのかは明らかではないが、南淵の大掾高野辺家成がここに居を占めたという。
その後、観応年中(1350~51)に足利直義が兄尊氏に叛き、上杉憲顕に攻められ、女淵に敗れて、足利に退いた(女淵の大合戦)という。
その後、しばらくは上杉管領の配下の将が居城したと思われる。
上州故城塁記・国志によると天文年間(1532~54)、新田正伝には永禄2年(1559)に上杉謙信が女淵城を攻め落とし、
長尾顕長に与え、顕長は家臣・荒井(新井)図書に居城させたとある。新井氏は、後に新井白石を出したことで有名な家系である。
天正6年(1578)謙信の没後は、武田氏の手に落ちたが、天正10年(1582)武田勝頼滅亡後、後北条氏の支配下となった。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、松井田城が秀吉の軍勢に攻められ開城後、
女渕城も落城・廃城となった。
『「粕川村村史」、「粕川村の城跡・宮崎高志」、「現地説明板」他参照』
【女淵の地名伝説】
女淵(おなぶち)或いは尾奈淵・小奈淵・御南淵の地名の起源については2説ある。
一つは、当地に南淵の大掾という豪族がおり、土地の者が尊称して御南淵様と呼び、のちにそれが地名となり、女淵となったという。
2つ目は、高野辺家成という者が当地に住居し、その娘がいたが、継母がこれを憎み、郎党と謀って、摩住多の淵に沈めたので、
のちの人がその淵を女の淵と呼んだことから地名になったという。
『「粕川村村史・粕川村の城跡、宮崎高志著」より』
現況・登城記・感想等
女渕(おなぶち)城は、東西200m、南北450mもの広い地域を占めていた。主要部は北から曲輪(民家)、本丸、二の丸(駐車場)、
三の丸(御霊神社境内)、龍光寺曲輪が並らび、土橋を渡って西側に西曲輪が設けられている。本丸は東西40m、南北30mあり、
水濠で囲まれ、本丸に接する帯曲輪、北曲輪、二の丸にはそれぞれ土橋で通じている。
この城の最大の特徴は、何と言っても各曲輪を囲む、最大幅90mにもなる水濠である。その水濠は、
今もよく残り農業用水として活躍しているようだ。
ただ、その為、各曲輪の周りが護岸工事で、あまりにも綺麗に整備されすぎていて城跡の面影はない。
しかし、曲輪がほぼ縄張り通りに残っているのは嬉しい。
(2008/12/20登城して)
ギャラリー
本丸西側の水濠
水濠の右が本丸、左側が西曲輪
本丸南東の水濠
本丸
表紙写真にある土橋を渡ると、本丸。本丸跡は畑地になっている。
石碑と説明板
本丸跡の北部には石碑、標柱、説明板が設置されている。
北曲輪
北曲輪は、宅地等になっている。本丸との間には水濠が残っている。
二の丸
本丸の南には水濠を隔てて、二の丸があった。二の丸跡は駐車場になっているが、
北部には僅かに土塁が残っている。
三の丸(御霊曲輪)
三の丸跡には御霊神社が鎮座しており、土塁が結構良好に残っている。
西曲輪
西曲輪跡も宅地化している。
女渕城址公園
円形の広場になっているが、説明板の縄張略図を見ると、ここも往時は水濠だったようだ。
龍光寺曲輪
公園広場の南には龍光寺があり、その周りの静寂が往時を偲ばせてくれる。また、寺の東には、
自然の水濠である川が流れている。