城跡の新庄小学校、校門内に説明板が
北陸道に面した交通の要衝にあり、一向一揆勢、上杉氏、織田氏が奪い合った城
別名
太田新城、辰城
所在地
富山県富山市新庄町1丁目6-30(新庄小学校)
形状
平城
現状・遺構等
現状:新庄小学校、住宅地
遺構等:説明板のみ
満足度
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訪城日
2007/06/07
歴史等
新庄城は、東に常願寺川、西に荒川を望む要害の地にあり、北陸道に面する交通の要衝にあったため、
早くから軍事上の拠点として重要であった。太田新城、辰城とも呼んだ。
永正17年(1520)越後の長尾為景は神保慶宗らを討つため越中に進攻し、慶宗を敗走させ、自刃に追い込んだ。
このとき新庄に陣したといい、これが初めての記録である。この頃、新庄城は長尾方によって整備されたとみられる。元亀3年(1572)
上杉輝虎(謙信)の武将鯵坂長実が在城し、5月、一向一揆が富山城を攻略すると、新庄城は上杉氏の富山城攻めの前線基地となった。
天正8年(1580)織田信長方の神保長住が新庄城を攻めており、佐々成政が富山城を拠点とした越中平定には佐々方の城となっている。
同13年(1585)、上杉方の土肥氏勢が一時新庄城を奪っているが、その後前田氏の城となり、元和元年(1615)
までには廃城となったと思われる。
江戸時代の記録によれば、城の規模は東西140m、南北100m以上で、本丸と二の丸からなる。周囲には土塁と幅8mの堀がめぐる。
本丸と推定される高台は、かつて御屋敷山と呼ばれ、現在は新庄小学校グラウンドとなっている。周囲には、古城跡割・古城・馬場・
屋敷割などの小字がかつて残っていたが、宅地化が進み城の面影はない。
平成16年8月 富山市教育委員会
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
説明板にもあるように、現在小学校の門入口横(グラウンド隅)に説明板があるだけで、遺構は勿論、城の面影も、
要害地としての面影も全く無い。
平和な世の中なのか、危険な世の中なのか、門の前の道路には、児童を迎えに来ている車で一杯であった。変な目で見られるようで、
写真を撮るのにちょっとばかり躊躇した。
(2007/06/07登城して)