若狭 国吉城(美浜町)

本丸への虎口

若狭国守護武田氏の重臣粟屋勝久により越前との境目の城として築かれた山城

所在地

福井県三方郡美浜町佐柿、若狭国吉城歴史資料館の裏山
【アクセス】
国道27号線「木野信号」から約800m東進し、斜め右に入り(国吉城の案内板あり)徳賞寺方面へ向かう。500m程進むと左手に駐車場がある。ここから、若狭国吉城歴史資料館の方へ歩いて行く。
若狭国吉城歴史資料館:美浜町佐柿25-2、電話0770-32-0050
徳賞寺:美浜町佐柿25-18、電話0770-32-1345

主郭までの所要時間

駐車場から山麓の城主居館跡まで2~3分、居館跡から主郭まで20分弱

形状

山城(標高192.3m、比高67m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、櫓台、虎口、石垣、空堀、堀切、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2011/04/24

歴史等

国吉城(くによしじょう)は、弘治2年(1556)若狭国守護大名武田氏の重臣であった栗屋越中守勝久によって、若越国境の境目の城として築かれた。
美浜町は、若狭の東端部に位置し、越前との国境に接しており、越前から若狭を経て丹後に至る唯一の街道「丹後街道」が通っていた。そして、越前から若狭の間には、御岳山から天王山に連なる山系が立ちはだかり、それを越える唯一の峠として椿峠があった。国吉城は、その椿峠の喉元に位置し、丹後街道と椿峠を眼下に見下ろす通称「城山(標高197.3m)」に聳え立ち、まさに若狭国の東界を守る天然の要害となっていた。
国吉城の名声を高めたのは、永禄6年(1563)国吉城に押し寄せた越前朝倉氏の軍勢を数年にわたり撃退し続け、壮絶な籠城戦を展開した「国吉籠城戦」であり、城主粟屋勝久の勇名とともに伝わる。
元亀元年(1570)、越前朝倉氏攻めのために木下藤吉郎や徳川家康らを伴って国吉城に入城した織田信長は、勝久の武勲を大いに賞賛したという。その後、勝久は織田方の武将(若狭衆)として各地を転戦した。
勝久は、信長によって領土は安堵されたが、本能寺の変以後は、秀吉によって他国へ所替えされたらしく、その所領がどこであったのか明らかでない。
その後、天正11年(1583)に入城した木村常陸之介定光は、佐柿を城下町として整備すべく、椿峠を越えた丹後街道が集落の中を通るように道筋を付け替えて町割りを行った。
江戸時代に入ると国吉城は廃され、寛永11年(1634)に若狭国の領主となった酒井忠勝は、町奉行所と藩主休憩所として御茶屋屋敷(御陣屋)を置いた。以後、佐柿は三方郡の中心、丹後街道の宿場町として繁栄し、現在も当時の景観を色濃く残した古い町家や寺院が現存している。
『「現地説明板」、「パンフレット」、「日本城郭大系11」参照』

現況・登城記・感想等

居館跡から九十九折の山道(階段であるが直登に近いくらいの急坂)を登ると、中腹左手下に二の丸と伝承される曲輪が見えてくる。
伝二の丸は、中央部を土塁(食い違い虎口あり)で区画され、南面に高い土塁が設けられている。西や南からの攻撃を意識して築かれているのが分かる。
さらに山頂部を目指すと、次第に尾根の形がはっきり見え、人工的に削られた地形であるのが分かる。また、斜面には、ほとんど崩れてしまってはいるが、各所に石垣が見えるようになってくる。
山頂すぐ下に着くと、左手(北西部)に5段連続する塁段になった曲輪群(Ⅱ郭~Ⅵ郭)があり、右手の山頂部の本丸との間が堀切で断ち切られている。ただ、この堀切、中央部が方形に掘られ、ブルーシートで覆われていたが、それが何のか分からなかった?
塁段になった曲輪群の中でも、Ⅱ郭とⅢ郭の高低差が大きく、降りて行くのにロープが付いていたが、頸椎症ですっかり握力が弱くなっている私は、昨日からの雨で滑りやすくなっている、この急勾配の崖を、降りることは出来ても、再度登って来れるか自信がなかったので、降りるのを諦めた(/。ヽ)。
山頂部の本丸は、ほぼ三角形で、国吉城各曲輪の中で最も広く、東南角にL字形の土塁があり、周囲にはほとんど崩れてしまってはいるが、石垣跡が散見される。また、本丸の東南下には規模の大きい堀切が確認できる。
本丸からの眺望は良く、北側は若狭湾から敦賀方面、西側には佐柿の集落から美浜方面が一望でき、この城が若狭国の東界を守る城であったことが良く分かる。
(2011/04/24登城して)

ギャラリー

国吉城縄張図(登城口に配されたパンフレットより)
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国吉城全景
駐車場から歴史資料館(写真右)へ歩いて行くと、左手に城主居館跡の石垣(写真中央)が見え、その奥、上に国吉城址の山が見える。
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山麓の城主居館跡
山麓に発掘調査中の城主居館跡があり、その東側から登城する。
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登城道
城主居館跡から九十九折の山道を登って行く。よく整備されているが、最初は直登に近いくらいの急坂で結構きつい。
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伝二の丸
登り始めて10分強で、左手下に二の丸と伝承される曲輪が見えてくる。伝二の丸は、中央部を土塁で区画され、南面に高い土塁が設けられている。
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食い違い虎口
伝二の丸を区画する土塁には食い違い虎口が設けられている。
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虎口から入り振り返って伝二の丸を撮影
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伝二の丸のさらに西方面
伝二の丸の西下には、さらに一段低い郭が見られ、その先は急崖になっているようだった。
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ほとんど崩れた石垣が
伝二の丸の横から、さらに山頂部を目指すと、次第に尾根の形がはっきり見え、人工的に削られた地形であるのが分かる。また、斜面には、ほとんど崩れてしまってはいるが、各所に石垣が見えるようになってくる。
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左手に段曲輪が
山頂近くに付くと、左手に尾根が見えてくる。北西方向にに5段連続する塁段になった曲輪群(Ⅱ郭~Ⅵ郭)である。写真で見えるのはⅡ郭である。
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本丸北西下の堀切
本丸の北西下、Ⅱ郭との間は堀切で断ち切られている。ただ、この堀切、中央部が方形に掘られ、ブルーシートで覆われていたが、それが何なのか分からなかった? 傍(写真左端)には、石仏や五輪塔が並べて置かれていた。
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本丸北西下の堀切とⅡ郭
本丸側から堀切をもう一枚。
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Ⅱ郭からⅢ郭を
北西方向には塁段になった曲輪群(Ⅱ郭~Ⅵ郭)がある。その中でも、Ⅱ郭とⅢ郭の高低差が大きく、降りて行くのにロープが付いていたが、頸椎症ですっかり握力が弱くなっている私は、昨日からの雨で滑りやすくなっている、この急勾配の崖を、降りることは出来ても、再度登って来れるか自信がなかったので、降りるのを諦めた(/。ヽ)。写真では見づらいが、Ⅲ郭の向こうにⅣ郭も見えた。本来なら、当然、Ⅵ郭まで行くところだが・・・(;>_<;)。
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本丸
北西部の虎口(TOP写真)から本丸へ入る。奥の方(南東)に土塁が見える。
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石碑
本丸中央に大正時代に建てられた国吉城址碑がある。また、傍には石仏や仏塔、五輪塔が集められていたが、これらは、国吉城籠城の時に、敵に投げつけるために近隣から集められたものといわれているのだそうで、城山の至る所で見かけるというw(*゚o゚*)w。そういえば、本丸北西下の堀切の脇にも並んで置かれていた。
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本丸南東の土塁
本丸南東部には、L字形の土塁が残っている。
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本丸南東下の堀切
上写真の土塁の向こうは急崖になっており、さらに堀切で断ち切られている。この堀切は、尾根の鞍部を利用しているとはいえ、非常に規模が大きく見応え充分だ。尚、この堀切をわたり、尾根を進むと御岳山へ登れるようだ。
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本丸からの眺望
本丸からの眺望は良く、北側は若狭湾から敦賀方面、西側には佐柿の集落から美浜方面が一望でき、この城が若狭国の東界を守る城であったことが良く分かる。
(敦賀方面)
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(美浜方面)
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