若狭 武田氏館(小浜市)

武田氏館跡の空印寺。背後の山は後瀬山城址

若狭武田氏の居館

所在地

福井県小浜市男山(空印寺ほか)
空印寺:小浜市小浜男山2、0770-52-1936

形状

現状・遺構等

【現状】 空印寺ほか
【遺構等】 説明板

満足度

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訪城日

2011/04/24

歴史等

大永2年(1522)若狭守護の若狭武田氏5代元光は、戦国争乱の防備として山麓に貫通する丹後街道を掌握するため、また、当時有数の国際港湾都市であった小浜を統治するために、港の後背に聳える要衝の地に後瀬山城を築城した。
山頂部の主郭(南西)下には、御殿とも呼べる庭園を造っており、茶会や歌会なども催されたようで、数多くの茶器などが出土している。武芸ともに秀でた若狭武田氏ならではの城であった。
また、北麓の居館跡(武田氏館)は、発掘調査がされ、1辺約100mで周囲に堀をめぐらせた大規模な方形居館の跡が確認された。
後瀬山城は、永禄11年(1568)越前守護朝倉義景に攻められ、7代城主元明は降伏、越前へ拉致された。ただ、武田氏館はそのまま存在し、大隠居の6代城主信豊は、そこで生活していたという。
また、その後入国した丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊などの側近が代々居住した。
そして、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後に入国した京極高次も、小浜城が完成するまで、ここに居住した。高次の死後は、この居館を利用して、菩提寺の泰雲寺が創建された。
その後、京極氏が国替えとなり入部した酒井忠勝は、父の菩提を弔うために健康寺を創建した。
そして、忠勝の死後は、その菩提寺「空印寺」となり現在に至る。
『「現地説明板」、「日本城郭大系11」より』

現況・登城記・感想等

武田氏館跡は、空印寺や旧小浜小学校跡地となっている。
一部、発掘調査がされ、館周囲をめぐる堀跡や建物跡などが確認されたうだが、埋め戻されてしまったようで、遺構は何も見ることができない。
小学校跡地は、今なお発掘調査がされているようで、空き地になり、立ち入り禁止になっていた。その小学校跡地の、北側道路側に説明板が設けられている。
(2011/04/24訪れて)

ギャラリー

後瀬山城と武田氏館の位置図(現地説明板より)
後瀬山城縄張

武田氏館跡と背後の後瀬山城
武田氏館跡は、空印寺(奥の建物)と小浜小学校跡地(空き地)になっており、小学校跡地は、今なお発掘調査がされているようで、立ち入り禁止になっていた。(2011/04/24)
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発掘された居館建物跡(現地説明板の写真より)
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発掘された堀跡(現地説明板の写真より)
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