西益津小学校前にたつ本丸跡の標柱
鷹狩で寄った家康が鯛の天ぷらの食べすぎで体調を崩した城、その後死亡
別名
亀甲城、亀城
所在地
静岡県藤枝市田中、西益津小学校ほか
形状
平城
現状・遺構等
現状:本の丸・二の丸に西益津小学校、三の丸に西益津中学校・他は宅地
遺構等:復元櫓、移築城門、曲輪、土塁、水堀、標柱、説明板、遺構案内板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2004/06/29
歴史等
元亀元年(1570)正月、武田信玄は花沢城と共に徳之一色城を攻略しした。信玄は徳之一色城が城の立地に適していることをみて、
家臣・馬場美濃守信房に縄張を命じ、全く新しい城にしたので、名前も田中城と改称した。城が完成すると山県昌景を城主に命じ、
さらに元亀3年(1572)には板垣信安が入城した。信玄は、大井川を境として、諏訪原城~田中城~小山城ラインの支城群によって浜松城の徳川家康に対して圧力をかけたのである。
信玄の死後、武田勝頼が天正3年(1575)長篠・設楽ヶ原合戦で大敗すると、やがて天正6年(1578)
からは田中城も家康の攻撃をまともに受けるようになり、遂に天正10年(1582)2月20日には、徳川軍の総攻撃を受けた。この時、
田中城の城将は依田信蕃、三枝虎吉で、よく防いだが、武田一門の駿河江尻城主穴山信君
(梅雪)が徳川方に寝返り、田中城は完全に孤立し、遂に3月1日開城した。
このあと、家安の臣高力清長が城主となり、天正18年(1590)家康の関東移封とともに清長も武蔵岩槻城に転封となり、
そのあと中村一氏の家老横田村詮の領するところとなった。
慶長5年(1600)の関ヶ原以降は、酒井・三枝・桜井松平・水野・藤井松平・北条・西尾・酒井・土屋・太田・内藤・
土岐氏と目まぐるしく城主が交代し、享保15年(1730)、上野沼田から本多正矩が4万石で入封、
以後本多氏が6代続いて明治に至った。
なお、田中城のエピソードとして有名なことに、駿府城で隠居生活を送っていた徳川家康が鷹狩りのために田中城を訪れていたが、
元和2年(1616)年1月、御用商人茶屋四郎次郎から、上方で流行している鯛の天ぷらの話を聞き、その場で揚げさせて食べたところ、
あまりにも美味しいので、つい食べ過ぎて腹を悪くしたことが原因で腹痛を起こし、体調を崩したまま同年4月に75歳で没したというのがある。
『参考資料:静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)』
現況・登城記・感想等
全国でも珍しい円形輪郭式縄張の城とのことであるが、現在では、宅地化が進んでいてよく分からなかった。
取り敢えず、小学校の裏側は田園地帯になっており、車で回ったら、それとなく道(あぜ道?)が丸く廻っており、
これが当時の面影かなあと納得?。
また、反対側の宅地側にも円形に周っている土塁跡らしきものもあった?。小学校の敷地が本丸になるそうであるが、
その側に三日月堀の一部があり、校門を入った所に田中城のミニチュアがつくられていた。
また、城の南東部の下屋敷跡に当時の庭園が復元され、城の物見櫓(移築現存)・厩・中間部屋・茶室・
農家などの移築建築物が並んで移築されているとのことであったが、会社の先輩I切さん(OB)に無理やり付き合ってもらっているので、
次回にでもと思って諦めた。
(2004/06/29訪城して)
ギャラリー
田中城のミニチュア
小学校の敷地が本丸になる。校門を入った所にミニチュアがつくられている。
大手二の橋
二の堀に復元されている。この内側に大手二の門があった。
水堀跡
コメント
ゆみこ(2006/10/28)
初めまして。突然の書き込みで失礼します。
私はこの小学校を卒業した者です。
そして、今もこの付近に住んでいます。
実は今日、母校である西益津小学校で、
亀城祭(きじょうさい)というものがありました。
大名行列を再現する行事です。その事で、少し調べものをしていた時、
この写真も目にし、驚きました。
そして、「円形輪郭式縄張の城」の事ですが、宅地化が進んではいますが、地図で見ると一目瞭然!亀の甲羅のように円形の地形になっていますよ。
田中下屋敷も、我が家の目の前にあります。
長文失礼しました。
タクジロー(2006/10/31)
コメントありがとうございます。
早速、地図を見ました。おっしゃるとおり、はっきり分かりました。
ついでにと思い、Google Earthでも見ましたが、ぼやけて分かりませんでした。早い時期に、藤枝近辺もカバーしてくれると楽しく見れますね。
ちぃズ(2011/09/11)
こんにちは!
私は、田中城の分家の者です←(ホントです)
まあ、本家ではないのですがね(/_;)
私は今現在中学生で、田中城の分家であることを知ったのが小学4年生でした。興味はあったのあったのですが、行って見ようとまでは思わずインターネットで、調べてみることにしました。
そしたら、あなたのブログに出会いました。
とてもわかりやすく説明されていて感動しました!
来年の社会科の自由研究で、家系図を調べたいと思っています。もちろん田中城との関わりがあることも書きたいと思っています!
今、現在は2011年。
あなたがこのブログ記事を書いたのは2004年。
7年も経っていますので、このブログを放置しているのかもしれませんがコメントしてみました。
返信よろしくお願いします(´・∀・`)
タクジロー(2011/09/11)
ちぃズさま
当サイトへのご訪問ありがとうございます。
私は、以前、転勤で静岡市と浜松市にトータル14年ほど住んでいました。
ところが、当時は、城址にはあまり興味もなく田中城の存在は知ってはいたものの訪れたことはありませんでした。
また、藤枝や焼津には知り合いも多く、いつでも行けるという気持ちから、かえって行きそびれ、7年が経ってしまいました。
また、その7年前も、復元された庭園や、物見櫓(移築現存)等々も見ないまま帰ってきてしまいました。
近いうちに、再登城してじっくり廻りたいと思っています。
田中城の分家ということは、波乱の人生を送った「本多正重」の末裔ということになりますね。スゴイですね。
社会科の自由研究頑張って下さい。そして、是非、歴史に大いに興味を持って勉強してください。期待しています。
また、当サイトにも時々寄って下さい。
しんしん(2011/09/14)
いつも楽しませて頂いております。「人生の終い支度」と諸事情で3月に焼津市から千葉県に越してきましたが、私も登城したことのある田中城の書き込みがあり嬉しく思いました。ちぃズさまやタクジローさまのご先祖様が由緒ある武士の家系と知り羨ましいです。田中城には説明をしてくれるボランティアさんが居るのも良いですね。たしか本田と本多の両方の表記があったので質問をした記憶が有るような(細かな事は忘れてしまいましたが)・・・・
タクジロー(2011/09/15)
しんしん様
お久し振りです。
田中城にボランティアさんが居るのは知りませんでした。出来れば、札幌時代の仲間が静岡にいるうちに訪れたいものです。
本田と本多は、正重系本多氏にかぎらず、忠勝系本多氏なども、昔の資料によってどちらかを適当に使っているようで、あまり字の違いにはこだわらなかったようですね。
またのご訪問を楽しみにしています。