遠江 諏訪原城(島田市)

本丸と二の丸を繋ぐ土橋(5号堀と6号堀の間)

武田信玄が遠江侵攻の為に築き、勝頼が大修築した城

別名

扇城、牧野原城、金谷城

所在地

静岡県島田市牧之原字元宿
(旧・静岡県榛原郡金谷町菊川字城山)

形状

台城

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 空堀、土塁、馬出、曲輪、井戸、碑、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

2007/02/17

歴史等

諏訪原城は、武田信玄が遠江侵攻のために、永禄12年(1569)金谷台地に5砦を構えたうちの一つである。そして築城奉行・馬場信房(信春・氏勝)が初代城主となった。
天正元年(1573)高天神城奪取を目指す武田勝頼が、徳川氏の東遠江の拠点である掛川城を抑える目的と、 高天神城への中継基地とするため、武田信豊・馬場信房に命じ大規模に増改築した。
天正3年(1575)6月、徳川家康は諸軍をもって諏訪原城を攻めた。8月24日、約2ヶ月に及ぶ徳川軍の包囲攻撃により、武田方は城を捨て小山城に逃げた。
同日、家康が入城し、松平康親を城将とした。家康は城名を牧野原城と改めた。天正6年(1578)8月7日から、松平家忠が城の修築を始め9月7日完成した。
天正10年(1582)、松平康親は河東を領し三枚橋城(沼津市)に移り、諏訪原城は空き城になった。以後、掛川城に預けられ、天正17年(1589)頃には廃城になったと推定される。
『静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)より』

現況・登城記・感想等

堀跡がすごいと聞いてはいたが、私の想像を遥かに超えるものでした。まさに、堀・堀・堀で、「堀のデパート」である。しかも、その堀がいずれも大規模なもので、本当にすごい!! しかも、山城には珍しく、水堀まであります(但し、今は水はない)。
堀底に降りてみたかったが、残念ながら小雨まじりの天候で危険なため、案内板に載っているお勧めコースを歩いて廻るだけにしました。また、堀を渡る土橋も見応えがあるし、本丸(一部発掘工事中)・二の丸・三の丸・・・いずれも見応え満点です。
当城は、かなり大規模でしかも結構複雑です。今回は、残念ながら時間と天候の関係で40分程でさらっと廻ってしまったので、城郭の全体像がよく捉えられなかったし、この城の見所であろう馬出なども多く見逃してしまいました。また、じっくり時間をかけて廻るだけの価値のある城ですね。
(2007/02/17登城して)

ギャラリー

諏訪原城縄張図とお勧めコース(現地説明板より)
諏訪原城は、その縄張りから、別名を「扇城」とも云う。本丸を要に、二の丸・三の丸を前面に同心円形に配した扇状だからであり、その外郭に大手郭、帯郭、西の丸、亀甲、搦手がある。
今回は、
小雨まじりの天候と時間もあまり無かったため、案内板のお勧めコース(●●●で表示)を歩いて廻るだけにした。
諏訪原城縄張図

【登城記】
駐車場に設置された案内図のお薦めコース(順路)に従って廻ることにしました。
12号堀
旧東海道に面した駐車場に車を停めて北へ向かうと、いきなり大規模な堀「12号堀」
に出逢います。「12号堀」は、三の丸を守る、半月形の水堀で、長さ89.7m、幅15.3mあります。この堀の手前で道は2手に分かれます。右へ行くと大手口へ出ますが、案内板に従って左の道へ入って行きます。
12号堀

11号堀
右手に12号堀を見ながら進むと、左手に「11号堀」が現れます。荒れ放題のようで、かなり埋まってしまっています。
11号堀

大手曲輪と武家屋敷
11号堀を過ぎると、左手に「大手曲輪跡」が現れ、その向こうは「武家屋敷跡」となっています。「大手曲輪」は、当城の表玄関に当たる所です。どちらも、ほとんど整備されてないようで、入って行けそうにありません。
大手郭と武家屋敷

北11号堀
さらに北へ進むと、左手に「北11号堀」が現れます。この堀は、西の方へ長~く延びています。
北11号堀

馬場跡
北11号堀を越えると、馬場跡が現れます。
馬場

4号堀
右手には大規模な4号堀があります。4号堀は三の丸と二の丸を守る、自然の湧水による水堀で、諏訪原城最大の堀で長さ221m、幅14.5mあります。
4号堀

3号堀
馬場跡の北側には3号堀があります。3号堀は、2号堀とともに二の丸を守る堀で、規模は長さ700m、幅14.5mで、右の方へ弓なりに曲がって行っています。
3号堀

2号堀
3号堀の右(東)側には「2号堀」があります。さらに北へ進むと前方に 3号堀とともに二の丸を守る堀で、規模は長さ725m、幅14.5mです。
2号堀

帯曲輪
2号堀と3号堀の間には帯曲輪が設けられています。
帯曲輪

帯郭から二の丸へ渡る土橋(2号堀と4号堀間の土橋)
両側の堀ともに規模が大きく、見応え十分な土橋です。
土橋2

二の丸
土橋を渡り二の丸へ入ります。二の丸は、副将又はそれに準ずる武士の詰所で、武器保管や他の城から来た城将の控え所にもなります。武士の家敷もあったといいます。今は一面の茶畑になっています。
二の丸

二の丸と三の丸間を仕切る土塁
二の丸の南端には土塁が設けられています。二の丸と三の丸間を区画する土塁で、高さ3mほどあります。
二の丸と三の丸を仕切る土塁

本丸と二の丸を繋ぐ土橋(5号堀と6号堀の間)
二の丸と本丸間も、大規模な堀(5号堀と6号堀)で断ち切られており、土橋が架かっています。これまた見応え満点の土橋です。当写真は本丸側から撮ったものです。
土橋1

5号堀
土橋の北側が5号堀です。5号堀は三段鍵堀といい、底部は三段になっています。これは甲州流の特徴の一つです。規模は長さは40m、 幅13mです。
5号堀

6号堀
土橋の南側が6号堀です。6号堀は城内の谷沢(東沢)に続き、自然の地形(谷沢)を利用した堀となっています。規模は、長さ85m、幅14.5mです。
6号堀

本丸馬出口
土橋を渡ったところが本丸馬出口となっており、土塁らしき地形が一部確認できましたが、発掘工事中でよく分かりませんでした。
本丸馬出口

本丸
本丸は、東西104m、南北88mの方形で、牧之原台地が東方に突出する先端部にあります。現在、発掘調査中で今後が楽しみです。
本丸

天主台地
天主台地は、周りよりやや高くなっています。勿論、天守閣が建っていたわけではありませんが、二層の櫓が建ち、物見が常駐していたそうです。
天守台地

搦手口
搦手口下には、搦手外郭があり、食料・衣料・飲料水・武具等の運送などが主要な役割の地点でした。
搦手口

15号堀
規模は、長さ31m、幅6mです。
15号堀

カンカン井戸①
案内板のお薦めコースに従って歩いて行くと、カンカン井戸が・・・。この井戸は6号堀の底部にあります。
カンカン井戸1

カンカン井戸②
井戸の中を覗くと、石組みがはっきりと見えます。
カンカン井戸2

水の手
6号堀を下っていった処が水の手です。写真の処から下へ70mの処であり、 諏訪原城で使用される水の水源地であり、現在も地域の簡易水道の水源となっているそうです。今回は、時間がなく下りて行くのは止めました。
水の手

三の丸
お勧めコースに従って南西方面へ歩いて行くと三の丸跡へ出ます。三の丸は、食料・武器・弾薬を備えていた。説明板には「茶園一帯が三の丸」との説明があったが、荒れ果てて草茫々でしたw(*゚o゚*)w。
三の丸

4号堀と9号堀間の土橋
三の丸跡をあとにして西進すると、またまた大規模な堀に架かる土橋へ出ます。4号堀と9号堀間の土橋です。この土橋は、4号堀と 9号堀間の水位を調節する役目もしていたとのことです。
土橋3

9号堀
9号堀の壁面は壁立といい、切り立っている。自然湧水を利用した水堀で、規模は長さ109m、幅14.5mあります。また、この堀は、東の方にある土橋によって2つに分かれており、隠し堀の8号堀に続いています。
9号堀

大手口
土橋を渡ってから左折して大手口へ出て、お勧めコース終了です。写真の左側には半月形の12号堀が、奥には9号堀があります。
大手口
 

トップページへ このページの先頭へ

コメント

BLUES(2015/05/05)

昨年(平成26年)に初登城して、最大級の感動と興奮を味わいました。遺構の保存がすばらしい。武田城郭を堪能できますね。城門復元が決まっていて、使用する木材を乾燥するために積んでありました。

タクジロー(2015/05/08)

情報ありがとうございます。
城門が復元された頃にでも、再登城したいですね。
今秋あたりでしょうかねえ。

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント