三河 宇利城(新城市)

本丸跡に立つ宇利城址碑と説明板

源平合戦で有名な熊谷直実の末裔の居城、宇利城の戦いで落城

所在地

愛知県新城市中宇利字仁田
【アクセス】
県道81号線「中宇利」信号を北上する(案内板有)。あとは案内に従って左折、次に右折すると右手の田んぼに宇利城の説明板がある。 ここが登城口で、ここから主郭まで約14~15分。
駐車は、田んぼ沿いの通りを説明板が見える付近から少し通り過ぎた付近にぎりぎり駐車可能? 私はウィッシュだが、 これ以上大きな大型車だとちょっと無理かも?

形状

山城(標高165m、比高差約80m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、石垣、虎口、井戸、堀切、城址石碑、熊谷備中守実長石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2010/11/28

歴史等

宇利城は、源平合戦で有名な熊谷直実の末裔重実が築いたと言われる。
熊谷氏が、この地に住するようになったのは、正慶2年・元弘3年(1333)、足利尊氏の六波羅攻めに功があり、 三河国梁郡を賜った備中守直鎮と言われ、その後、兵庫頭重実の代になり、文明年間(1469~87))に八名郡宇理の地に移り、 城を構えたものと思われる。
戦国時代に入ると、新城地方は戦国大名の勢力争いの渦中に巻き込まれた。宇利城主熊谷備中守実長もその中の一人であった。実長(さねなが)・ 直安(なおやす)親子は、駿河の今川氏親に属していたが、氏親死後の享禄3年(1530)、三河統一を図る松平清康によって攻められ、 一族は各地に離散した(宇利城の戦い)
戦後は、功績のあった菅沼定則が宇利郷を与えられていたが、天文14年(1545) 頃から今川義元の三河侵攻が始まり、今川氏に仕えた近藤満用(みつもち)・信用(のち康用)が在城した。
近藤氏は、桶狭間の戦い以降も今川氏に従っていたが、永禄11年(1568)、徳川家康の遠江侵攻に伴い家康に属して、 その軍兵を案内した井伊谷三人衆(菅沼定盈、鈴木重時)の一人として働いた。その後、家康の下で宇利城を治めた近藤氏は、 武田氏の攻撃を受けたが守りぬき、その後、柿本城(旧鳳来町)に移ったという。

【宇利城の戦い】
今川氏親没後、 今川氏の力が弱ったのを察した松平清康(家康の祖父)は、享禄3年(1530)、東三河の攻略に乗り出し、吉田城をはじめとして、 牛久保・田原・西郷・伊奈・野田・作手・田峯の各地を従えた。
さらに、宇利熊谷氏をその麾下に治めようとしたが、従わなかったため、清康は松平一門を率いて、野田城主菅沼定則を案内として、 宇利城攻撃を始めた。
清康は富賀寺の裏山に陣を置き、宇利城の大手口だけでなく搦手方面からも猛攻を加えた。大手口には松平右京亮親盛(清康の叔父)・ 松平内膳正信定(親盛の弟)が、搦手には清康の旗本が攻撃にあたり、作手の亀山城主奥平貞勝が先導した。
熾烈を極めた攻防となり、清康は苦戦したが、城内の松平方に通じた岩瀬庄右衛門が城に火をつけたので、 城主実長は裏山伝いに落ち延びていった。
嫡子直安は北設楽郡豊根村に移って豊根熊谷氏となり、さらに次男直近は遠江浜名郡に住してのちに今川義元に仕え、 三男正直は三河額田郡高力に移住して高力氏を名乗り、のち徳川氏に仕えた。
この戦いで、城方370名、松平方90名が死傷し、大手の激戦では松平右京亮親盛が討死した。
『「現地説明板」、「日本城郭体系9」、「愛知の山城ベスト50を歩く・中井均著(サンライズ出版刊)」等参照』

現況・登城記・感想等

宇利城は「風は山河より(宮城谷昌光著)」を読んでから、一度は登城しておきたいと思っていた城である。
宇利城は、連郭式と螺旋式を併用した山城である。
城跡へは、田んぼの横の道端に立つ案内板のところから畦道を通って山中へ入り、緩やかな坂道を登ること14~5分で主郭部へ着く。
「宇利城の戦い」でも、なかなか落ちなかったというが、少なくとも主郭部への登城道では、それほど要害の地には思えなかった。
しかし、東西両側は急崖となっており、主郭部周囲は約10mほどの切岸が切り立ち、また、本丸北側は2本の大規模な堀切で断ち切られ、 かなり堅固な城であったのが理解できる。
城跡は、本丸と本丸までの登城道はよく整備されているが、その他は全くの藪状態で、見て廻るのが大変だった。尤も、 それだけに遺構も良好に残っているようであるが・・・。
(2010/11/28登城して)

ギャラリー

宇利城跡への登城道案内図(現地登城口の説明板より)

宇利城縄張略図(現地本丸跡説明板より)

登城口から遠景を
城跡へは、田んぼの横の道端に立つ案内板のところから畦道(写真右)を通って山中(写真左奥)へ入って行く。

大手口戦地跡・松平右京亮親盛戦死跡
登城口から緩やかな坂道を登ること10分弱で「大手激戦地跡・松平右京亮親盛戦死跡」へ出る。 この辺りが激戦地だったのだと小説「風は山河より」を思い出し、感慨深いものがある。

松平右京亮親盛の墓
上写真のすぐ横の小曲輪跡に松平右京亮親盛の墓がある。あまりにも古いため、 墓石の正面が剥がれてしまっている。

主郭部(姫御殿)の切岸
松平右京亮親盛の墓から1~2分ほど登ると、正面に主郭部(姫御殿)の切岸が見えてくる。

井戸跡
切岸のすぐ下に井戸跡が確認できる。

主郭部上への虎口
井戸跡から主郭部(姫御殿)の西裾を進むと主郭上への虎口へ出る。

本丸と姫御殿間の土塁と堀底道
主郭部は、西の曲輪「本丸」と東の曲輪「姫御殿」が並列した縄張で、中央を堀底道が通っている。 左土塁の左側が本丸で、右土塁の右側が姫御殿。

本丸への石段
主郭上への虎口を登ってすぐ左側に本丸への石段がある。見た目から、往時のもののような気がするが・・・。 ただ、本丸虎口は、本丸と姫御殿の間の堀底道から左右に分かれて、お互い背中合わせのようになっている土塁の開口部(虎口)もあるので、 果たして同じ側に2つの虎口があったかどうかが疑問だが・・・。

本丸
本丸は東・西・北に土塁が設けられ、ブリキのでっかい城址碑・説明板・城址石碑・宇利城の戦い戦没者慰霊碑・ 熊谷備中守実長の石碑が立っている。
 

物見櫓跡
北側角の土塁は他の部分よりも高くて幅もありどっしりしており、物見櫓が建てられていた。            

西櫓跡
本丸には、物見櫓以外に西櫓と東櫓が建っていた。この西櫓跡の向こうは急崖になっている。

東櫓跡
この東櫓跡は、一段下の写真の虎口の左側になる。

姫御殿を
本丸のもう一つの虎口から姫御殿を撮影したものである。手前が本丸虎口で、奥に姫御殿虎口があり、「姫御殿」 と書かれた標柱の立つ御殿内へ入って行くことが出来るが、強烈な藪で突入は諦めた。

本丸から堀切越しに納所平を見下ろす
本丸の物見櫓跡の北直下は10mの高い切岸と堀切による強固な防御になっている。堀切の向こうに曲輪 「納所平」が見えるが、強烈な藪で、一瞬たじろいだ(汗)。

石垣跡は?
本丸の北西部に「石垣へ」という案内板があったので、降りて行ったら、強烈な崖を降りるはめになった。 右写真は降りてから撮ったものだが、この崖は90度は大袈裟にしても、45度くらいはありそうで、高さ約4~5mほどある。これが果たして、 本当に案内板通りの道なのだろうか(苦笑)。足元を固めず、普段の散歩用シューズで来てしまったのを反省!

本丸北側の堀切
上写真の崖から、せっかく本丸下へ降りたので、納所平のある北側へと廻って堀切へ出た。藪のためか、 写真では、その迫力を伝えられないが、高い切岸は見事なものだ。

納所平の北側の堀切越しに見下ろす
覚悟を決めて、納所平の強烈な藪の中を北へと進むと、またまた大規模な堀切が見え、 その向こうにも曲輪が見えてきた。不思議なことに、向こうの曲輪は、納所平よりも藪が少ない(^^)。

納所平北側の堀切
この堀切、本丸北側の堀切と同じくらいというか、それ以上に規模が大きい。 切岸もやはり高さ10mはあるだろう。この後、石垣方面へ向かったが、道らしきものが見付からず、急崖ばかりな上、 少し時間も遅くなり薄暗くなってきたので、石垣と御馬屋平は見ずに下城することになってしまった(泣)。

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