三河 牧野城(豊川市)

主郭南西部の土塁、上には城址碑が立つ

戦国時代に東三河地方に勢力をふるった牧野氏が最初に築いた城

所在地

愛知県豊川市牧野町丁畑
国道151号線「牧野町信号」を東へと県道31号に入り、100m程東進して川を渡り、さらに200m程東進し、2つ目の路地を左折する。 右手に明全寺を過ぎ、左手にビニールハウスを見ながら300m程北上するとT字にぶつかるのでここを左折する。 その後すぐの道を右折すると土塁がある。この付近が城跡である。
明全寺:牧野町郷中21、0533-86-5698

形状

平城

現状・遺構等

現状:田園
遺構等:曲輪、土塁、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2010/11/28

歴史等

牧野城は、戦国時代に東三河地方に勢力をふるった牧野氏が最初に築いた城である。
足利将軍義持の命により新補地頭となった田口(田内)伝蔵左衛門成富が、応永年間(1394~1428) に四国の讃岐からここ三河国中条郷牧野に来住し、一色氏の被官として城を構えたという。
成富の子古白(成時)は、この地方で勢力を拡大していき、明応2年(1493)に一色城(豊川市牛久保町)の城主波多野全慶を討ち、同年、 瀬木城を築き、姓も地名をとって牧野と称したとされる。
その後、古白は、永正2年(1505)に今橋城 (後の吉田城)を築いて居を移し、同年、牧野城は廃城になったと伝えられる。
当時の牧野城は豊川の旧河道に面した自然堤防上に立地しており、発掘調査の結果、城の規模は南北約102m、東西が北堀で72m、 南堀で約84mあったことが確認された。城の形態は、いわゆる掻揚城で、今でも南側の土塁が良好に保存され、高い所で約3m、 幅は最大約13mをはかる。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

ビニールハウスが立ち並ぶ畑の中に、高さ3mほどのL字形の土塁が残っている。土塁の最も高い箇所に城址碑が立っている。
土塁は、主郭南西部分が残っているだけだが、周りが宅地や田園として開拓されているのを考えれば、これだけ残っているだけでも奇跡かも!?
(2010/11/28訪れて)

ギャラリー

城址現存部分の図(現地説明板より)

主郭南西部と土塁
城跡は主郭南西部分だけが残り、L字形の土塁が残る。現存している曲輪部分は、東西約60~70m、 南北約30mほどである。土塁の高さは高い所で約3m、幅は最大約13mある。

曲輪跡に立つ説明板

土塁の上に立つ城址碑

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