村木砦南端部に鎮座する八剱神社
天文年間に、今川氏が水野氏の緒川城を攻略するために築いた砦
所在地
愛知県知多郡東浦町森岡字取手、八剱神社
【アクセス】
国道366号「東浦森岡」信号から半田方面へ南進し、次の信号を左折する。路地は細いが、神社までそのまま入れる。
形状
平城
現状・遺構等
現状:八剱神社、宅地
遺構等:石碑、説明板
満足度
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訪城日
2011/01/14
歴史等
天文20年(1551)、今川義元は、強敵織田信秀の死を好機に、尾張への侵攻を図った。
やがて、鳴海城・大高城・
沓掛城を手中に収め、
さらに織田に属する緒川城の水野信元を攻略しようとし、重原城を根拠地として資材を送り、
村木の岬に砦を築き東条松平義春を城将とした。
信元から援軍の依頼を受けた織田信長は天文23年(1554)1月21日、強風の中、兵を率いて那古野城を出発し、
23日緒川城に到着した。
24日朝から織田・水野の連合軍が村木砦の攻撃を開始した。両軍共によく戦ったが、夕方になって今川軍は遂に降伏した。
八剱神社は元亀元2年(1571)、信元の家臣清水家重・同政晴が戦死者鎮魂を願って創建したものである。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
村木砦は、JR武豊線で真っ二つに分断され、線路の西側に八剱神社が鎮座して、石碑と村木砦の戦いの説明板が立つのみだ。
説明板の図を見ると、八剱神社のある辺りは、砦南端の一画のようで、砦の北と東側は海、西は空堀、南は大堀が掘られていたようだが・・・。
また、『信長公記』にも、当時は村木砦の東側は海で、北側は断崖、南に大堀があったとあるが、地形が全く変わってしまい、
今ではとても想像がつかない。
(2011/01/14訪れて)
ギャラリー
付近史跡地図(現地説明板より) ~クリックにて拡大画面に~
砦跡は、JR武豊線で真っ二つに分断されている。近くには、織田信長の陣屋(天王山)
や村木砦の戦いの戦死者を葬った首塚等の史跡がある。
村木砦概略図(現地説明板より)
八剱神社は、村木砦の南端の一部で、砦とはいいながら結構広かったようだ。また、北と東側は海、西に空堀、
南には大堀となっているが、あまりにも地形が変わってしまい、想像すら出来ない(苦笑)。
八剱神社境内に立つ城址碑
今では、八剱神社のすぐ横(東)をJR武豊線が通り、その向こうは田園地帯となっている。