模擬陣屋門と吉良上野介義央騎馬姿の銅像(右)
吉良上野介義央の陣屋
別名
吉良陣屋
所在地
愛知県幡豆郡吉良町岡山
形状
陣屋
現状・遺構等
現状:宅地ほか
遺構等:模擬陣屋門、吉良上野介銅像、説明板
満足度
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訪城日
2007/12/17
歴史等
鎌倉時代の貞応元年(1222)頃、足利義氏が三河守護・吉良荘地頭となった。その3男義継は吉良荘東条を譲られ、
東条吉良氏の祖となった。以来、東条吉良氏は14代、約340年続くが、永禄4年(1561)14代義昭の時、松平元康(徳川家康)
により東条城を攻められ落城、
滅亡した。
しかし、天下を掌握した家康は、13代義安の子義定を旗本に取り立て吉良家を再興し、この地(吉良町岡山)に二百石、鳥羽(幡豆町鳥羽)
に三百石)を与えた。これが江戸時代の高家吉良家の始まりである。義定はこの地に館を構え、以後、義弥、義冬、義央と続いた。
4代義央が忠臣蔵(赤穂浪士)で有名な吉良上野介である。
『現地説明板、東条城址現地説明板参照』
現況・登城記・感想等
吉良町では吉良上野介は英雄である。上野介が築いた黄金堤や菩提寺の華蔵寺には上野介を称える文面を見かける。
華蔵寺には吉良家代々の墓所があり、石段を登ったところに吉良上野介の墓がある。黄金堤はなかなかしっかりした堤が結構残っており、
今では桜の名所になっている。また、少し離れた吉良町宮迫(みやばさん)の円融寺には、清水一学の銅像と墓がある。
肝心の岡山陣屋は、そのあった場所に模擬陣屋門と吉良上野介の乗馬姿の銅像(華蔵寺や黄金堤にもある)があるだけである。
(2006/12/17訪城して)
ギャラリー
㊧華蔵寺、 ㊨吉良上野介の墓
華蔵寺は吉良上野介義央の曾祖父義定が吉良家を再興した際、
新たに高家吉良家の菩提寺として江戸初期に創建された。吉良家墓所がある。
華蔵寺にある吉良上野介を称えた鬼城の句(於華蔵寺)
吉良町には上野介を称える文面を各所で見かける。これもその一つで、華蔵寺境内への坂道で見かけた。
黄金堤
「吉良さん(吉良上野介義央)、善政の最たるものは。この黄金堤の築堤である。当時、
増水のたびに隣藩上流平野の水が南下し、今の吉良町の新田地帯はそのつど大水に悩まされた。吉良さんは、
この山間の約180mを堤防でふさぎ、下流8千石の田園を水害から救った。当然、隣接西尾藩はこの工事に強く反対したが、吉良さんは、
決壊したら2度と築堤しないと、誠意を尽くして約束した。領内老若男女こぞって工事に参加し、一晩で完成したと伝える。引き続き関連の用排水路が整備された。黄金堤の美称は、
吉良さんへの尽きない思慕である。 吉良町教育委員会」 【現地説明板より】
鎧ケ淵古戦場跡(黄金堤隣)
永禄4年4月15日、この街道を中心に吉良方と松平方が激突した。
山腹に兵をひそめた吉良方の策に陥り深追いした松平方は淵に追い落されて大部分が戦死した。
この合戦によって淵の底に沈んだ将兵の鎧や武具が、その後しばしば引き上げられたため、この淵を鎧ケ淵と呼び、
この戦いを鎧ケ淵合戦と称するようになった。
【現地説明板より】
㊧円融寺、 ㊨清水一学の墓
少し離れた吉良町宮迫(みやばさん)の円融寺には、清水一学の銅像と墓がある。
一学は、この宮迫の百姓の生れで、幼名を藤作といった。少年の頃から剣術を好み、岡山の陣屋へ通った。吉良上野介は藤作に目をかけ、
15歳で江戸の呼び寄せ、やがて中小姓にとりたてた。赤穂浪士襲撃の夜、一学は奮戦して討死、行年25歳であった。
遺骨は江戸万昌院に葬られ、円融寺に分骨した。【現地説明板より】