岡山本陣跡に立つ小さな石柱
関ヶ原合戦時に岐阜城を攻略した東軍が西軍の拠る大垣城と対峙した陣城
所在地
岐阜県大垣市赤坂町
大垣市勝山斎場の裏山が陣城跡。大垣市勝山斎場の横の墓所の中を登って行き、主郭まで約10分
大垣市勝山斎場:赤坂町745-1、電話0584-71-3410
形状
陣城
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:石柱
満足度
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訪城日
2010/11/30
歴史等
岐阜城を攻略して意気上がる東軍は、慶長5年(1600)8月24日、西進して大垣城北西4kmの赤坂(大垣市)の地に入った。
そして翌25日、軍監の本多忠勝と井伊直政は徳川家康の本営をここ岡山に定めた。家康到着の9月14日までの20日間、
東軍諸将は丘の麓や周囲に布陣し、砦を築いて、大垣城を本拠とする西軍・石田三成らと対峙した。
14日夜に家康が赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せたのを察知した三成は、関ヶ原方面へ転進。西軍の転進を知った家康も、
即座に関ヶ原へ向かい、翌15日に天下分け目の関ヶ原合戦が始まった。
合戦後、東軍が勝利した事から、岡山は勝山と呼ばれるようになった。
現況・登城記・感想等
山頂部が削平され平坦になっているが、遺構らしきものはなく、背の高い「皇太子殿下御野立之處」の石碑の横に、「弘文天皇壬申の乱」
の碑と並んで小さな石碑が立っているだけだ。この山は「壬申の乱」の時の重要な場所でもあるのだ。
その奥が、一段高い土壇のようになっているが、大垣市水道課の何らかの施設らしく立入り禁止になっている。
眺望はかなり良いが、周りの草木のため見辛い。
(2010/11/30訪れて)
ギャラリー
山頂部の本陣跡
山麓から歩くこと約10分で山頂部の本陣跡につくが、土塁等遺構は全く見当たらず。
正面奥に背の高い石碑が見え、その奥が一段高くなっているが、大垣市水道課により立入り禁止になっている。
㊧皇太子殿下御野立之處の碑、㊨壬申の乱の碑と並んで立つ石碑
背の高い石碑は「皇太子殿下御野立之處」と刻まれている。明治時代に、時の皇太子(後の大正天皇)
が来た記念碑だそうだ。その横に、ひっそりと小さな石柱が立っている。一つは「弘文天皇壬申の乱」の碑である。この山は、
壬申の乱の時の重要な場所でもあるのだ。そして、その横に並んで「史蹟・関ヶ原合戦岡山本陣趾」の碑が立っている。
関ヶ原方面の眺望
少し前まで、模擬の「家康物見台」というちょっとした展望台があったそうだが、今は何も無く、
眺望はかなり良いはずだが、周りの草木のため見辛い。