美濃 揖斐城(揖斐川町)

主郭北側虎口外の堀切と土橋

美濃の名族土岐氏一族揖斐氏の城、斉藤道三により落城

所在地

岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪北新町、城台山公園
【アクセス】
登城口は、いくつかあるようだが、山腹にある「一心寺」から登る場合、岐阜市方面から国道303号線で北上し、右手に揖斐プラザを過ぎたところで2手に分かれるが、そこを右へと県道251号線へ入り700mほど進むと、右手にJAいび川揖斐(見逃しやすいので要注意)があり、そこを右へ曲がり東進すると、やがて案内板があり、それに従って行けばよいが、道が狭い上に、非常に分かり辛いので、揖斐川町三輪に入ったら尋ねた方が無難です(私も散々迷いました)。一心寺に駐車場あり。

駐車場所からの所要時間

一心寺駐車場から12~13分

形状

山城(標高223m、比高180m)

現状・遺構等

【現状】 城台山公園(山林)
【遺構等】 曲輪、竪掘、堀切、虎口、土橋、井戸、石碑、説明板、遺構案内板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2011/11/16

歴史等

揖斐城は、康永2年(興国4年、1343)に美濃の名族土岐頼清の子、土岐頼雄がこの地を分与され城台山に城を築き、揖斐氏を名乗った。
以後、詮頼・友雄・基春・基信と代々揖斐氏の居城となり、基信に子供がなかったので、宗家の土岐政房の子光親を養子として迎えた。
戦国期、土岐一族は下克上により次々と斎藤道三の手に落ちていった。
天文16年(1547)、道三は土岐頼芸の拠る大桑城を再度攻め落とし、さらに進んで頼芸に味方した相羽城の長屋景興を滅ぼし、続いて、光親の守る揖斐城をも攻撃した。城は戦火によって焼失し、約200年続いた揖斐城は廃城廃城となった。
光親は城を脱出して、流浪の末、古橋に一城を築いて住んだと伝える。
『日本城郭大系9より』

現況・登城記・感想等

揖斐城は、城台山公園となり道がよく整備されている。
典型的な連郭式山城で、南西から北東に延びる尾根に南の丸・本丸・二の丸・三の丸・太鼓曲輪(出丸)・北の丸・搦手曲輪を構えている。
遺構も良好に残り、本丸北側の桝形虎口と堀切、土橋、太鼓曲輪の切岸、北の丸の堀切など見どころも多い。
揖斐郡内で、遺構もよく残り、整備もされている数少ない山城で、登城お薦めの城だと思う。
(2011/11/16登城して)

ギャラリー

城址平面図
揖斐城平面図

遠景
揖斐警察署の南東(国道303号線)から揖斐城跡のある城台山を撮影した。私が、今回、登城口に選んだ
一心寺は、写真右の少し高くなっているところにある。 
01遠景

一心寺
登城口の一心寺へは、車のすれ違いが出来ない細いくねくね道を登って来る。お寺の南端に立つ城台観世音菩薩像の前にも小さな城址碑が立っている。
02一心寺 02一心石碑

段曲輪
登り始めて9分ほどで小さな削平地(曲輪跡)が現れる。本丸南下にある段曲輪で、一番上の南の丸も含めて4段ほどの段曲輪になっている。
IMG_7136

南の丸(正面奥の土塁上は本丸)
一心寺から、よく整備された登城道を登ること、10分強くらいで南の丸へ着く。南の丸は、本丸南下にあり、日本城郭大系9によると、本丸との高低差は約9mとあるが、せいぜい6~7mだと思う。
03南の丸

本丸
本丸は、城台山の最頂部にある細長い曲輪で、南北に長く、南北約54m、東西は広い所で約14~15mである。「揖斐城址」の石碑と「本丸」の案内板が立っている。
04本丸 04本丸石碑

本丸北側の枡形虎口
本丸北側には、比較的良好に枡形虎口の形状が残っている。
05本丸枡形

本丸北側の堀切と土橋
二の丸へ向かう本丸北側の枡形虎口の外側は、堀切で断ち切られ土橋が架かっている。堀切は、竪堀となって山裾へと落ちて行っている。
06土橋

二の丸へ向かう
土橋を渡り降りていくと、揖斐城址の平面図付きの説明板が立っている。そこから二の丸へは細長い曲輪が続くが、その境目は分からなかった。
07二の丸へ

二の丸から本丸方面を
二の丸は、本丸より約4.5m低い。この写真では分かり辛いが、二の丸から振り返って本丸方面を眺めると、細長~い曲輪の向こうに見える、一段高い本丸とその手前の土橋の光景がなかなかのものだ。尚、二の丸の下の方に井戸が残っているらしいが、見忘れてしまった(/。ヽ)。
08二の丸

三の丸へ向かう
二の丸と三の丸の間にも、二の丸より一段低い細長~い曲輪がある。この辺りに二の丸門があったようだが・・・。
09三の丸へ

大手門跡
細長~い曲輪と三の丸の境目に大手門があり、ここから大手曲輪や西の丸曲輪へ降りて行けるようだ。
10大手門跡

三の丸から出丸(太鼓曲輪)を
三の丸の東は4~5mほど高い太鼓櫓跡と伝えられる出丸(太鼓曲輪)がある。
11三の丸から出丸を

出丸(太鼓曲輪)・北の丸間の堀切
出丸(太鼓曲輪)と北の丸の間は、かなり埋まってしまってはいるが、堀切が確認できる。
12北の丸と出丸

北の丸から出丸(太鼓曲輪)を
北の丸から出丸(太鼓曲輪)を見上げると、切岸が急傾斜であり、手前の堀切と合わせて、かなり防御を固くしていたのがよく分かる。
13北の丸から出丸を

北の丸・搦手曲輪間の堀切と土橋
この堀切は実に良好に残っている。
14北の丸堀切と土橋

搦手曲輪の先の土橋
搦手曲輪の先は、痩せ尾根を削った土橋が続くが、その途中にも堀切が設けられている。
IMG_7182

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