一面の田園地帯の一画に立つ城址碑
家康の遠江侵攻への備えとして気賀の土豪が築いた城柵
別名
堀河城
所在地
浜松市北区細江町気賀
形状
平城
現状・遺構等
現状:田園
遺構等:石碑、説明板
満足度
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訪城日
1980年
2005/09/03
歴史等
室町時代終り頃、この地方は今川氏の勢力下にあった。
永禄3年(1560)の桶狭間合戦で義元が戦死したのち、土地の人々はここに砦を築き、地名にちなんで堀川城と名付け、刑部(細江町中川)
にも刑部城を築き、
徳川家康の遠江侵攻に備えた。
永禄11年(1568)刑部城を落とした家康は、
翌12年3月27日に3千の軍を率いて堀川城に攻め入った。男も女も戦える者およそ2,000人はすべて城に立て籠もって抵抗したが、
みるまに落城した。
この戦いに加わった大久保彦左衛門が書いた「三河物語」には「男女ともなで斬りにぞしたりける」とある。
残った人々もことごとく首を打たれた。3月27日の戦いでおよそ1,000人、9月9日に700人余、
当時の住民の半数以上の犠牲者を出したと伝える。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
田園の中を通る道路沿いに、小さな庭園のようなのがあり、そこに石碑が建っているだけである。
そののどかな田園風景からは、家康軍に惨殺された住民の悲惨な史実が想像だに出来ない。
(2005/09/03訪れて)