三瀬館跡段曲輪に設置された石碑と説明板
伊勢国司8代北畠具教が大河内城合戦で信長と和議の後に隠棲した居館
別名
三瀬御所
所在地
三重県多気郡大台町上三瀬
【アクセス】
紀勢自動車道「大台大宮IC」を降りて、国道42号線との交差点を左折し道なりに1kmほど進むと左手に「道の駅奥伊勢おおだい」がある。そこからさらに進み、道の駅から4つ目の点滅信号(左手に中部電力があり、「北畠史跡」の看板もある)を左折し、そこからは館跡への案内板に従って進めば館跡の下に到着する。
形状
館
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、石垣、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2013/02/25
歴史等
三瀬館(みせやかた)は伊勢国司8代北畠具教が隠居してからの居館である。
永禄12年(1569)伊勢国司8代北畠具教は、大河内城にて北畠氏の総力を挙げて伊勢に侵攻してきた織田信長の大軍を迎え撃ったが、やがて信長の三男信雄を養子とする条件で和議を結んだ(大河内城合戦)。
その後、天正2年(1574)3月、具教は宮川筋において最も要衝である三瀬の地に館を築いて隠居し、勢威の回復を図ったが、天正四年(1578)11月信長の指令により信雄のさしむけた刺客(家臣)長野左京進・滝川三郎尉らによって謀殺された。
その後、信雄により森清十郎の居城にされた。
『「現地説明板」、「日本城郭大系10」より』
現況・登城記・感想等
三重県も三瀬の辺りまで来ると世界遺産熊野古道一色で、至る所に「熊野古道」の案内板が。また、町興しの一環として道の駅も充実し、観光案内所にも熊野古道のパンフレットがいっぱい。
いつも探すのに苦労する城址だが、観光案内所の方の懇切丁寧な案内のお蔭で三瀬館も三瀬砦も簡単に辿り着くことができた。
三瀬館跡は、鎌止山麓斜面に9段ほどの連続した塁段からなっているが、はっきり土塁と分かるようなものは確認できなかった。
館跡は、町からそれほど高い場所にあるわけでもないが、比較的眺望もよい。
また、館跡の南下100mほどの所に、織田信長の差し向けた刺客によって謀殺された、北畠具教の胴体が埋葬されているという胴塚がある。
(2011/02/25訪れて)
ギャラリー
三瀬館跡の下
案内板に従って来ると、館跡下まで着く。日本城郭大系には遺構として石垣があったが、写真の石垣は積み方から見れば当時のものである可能性はあるが、綺麗な上、あまりにも整然としているので・・・?
北畠具教胴塚の碑
最下段の曲輪跡の西端(上写真左の方)に、北畠具教の胴塚の碑がある。この碑は、もと当区小字西村(現宮川高校敷地)に鎮座した北畠神社の神域内に祀られていたもので、北畠氏旧臣の子孫の発意により江戸初期に造られたと云われる。
段曲輪
三瀬館跡は、鎌止山麓斜面に9段ほどの連続した塁段からなっている。最下段の曲輪跡から撮ったものである。この曲輪の一段上の曲輪の右手(東)にTOP写真の石碑と説明板が設置されている。
館跡から南方を見下ろす
三瀬館は、町からもそれほど高い場所にあるわけではないが、比較的眺望はいい。往時は、南方600mほどの所にある三瀬砦もよく見えたことであろう。
最上段の曲輪跡へ
最上段の削平地(曲輪)へは、右側から登って行くようになっていたようだが、石段跡であろうか、多くの石が転がっている。
北畠具教胴塚
館の南下100mほどの所に北畠具教の胴塚がある。天正4年(1576)11月25日「三瀬の変」、織田信長の差し向けた刺客によって謀殺された北畠具教の胴体が埋葬された塚である。首は、家臣が津市美杉町の多気の菩薩寺に葬ろうと、宮川筋をさかのぼり馬を走らせたが、敵方の追撃が厳しく、大台町栗谷から尾放峠を越え、松阪市飯高町の野々口に埋葬されたという。