主郭東側の土塁上から主郭と堀切・土橋を
北伊勢の雄・千種氏の居城
所在地
三重県三重郡菰野町千種字城山
【行き方】
県道626号と県道762号の交差点を西へと県道762号を進み、2本目の路地(右側に「子ども広場」がある)
を左へ入ってすぐに右手の小川に架かる橋を渡ると、正面突き当りに千種城址(説明板と石碑も)が見える。
突き当たりを右に登る道があり、これを登りきった公園に駐車可能であるが、大きな車の場合、先ほどの「子ども広場」
に停めて歩いて行く方が良いかも。
形状
平山城
現状・遺構等
現状:城址公園、山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、土橋、石碑(2基)、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2010/01/24
歴史等
千種城(ちくさじょう)は、中世後期における北伊勢と近江とを結ぶ交通の要衝に築かれていた。
正慶2年・元弘3年(1333)、後醍醐天皇の挙兵に戦功のあった千種忠顕は、建武元年(1334)、三重郡24を領し、
目代伊藤吉治を置いた。
忠顕の二子顕経は、南朝の重臣で伊勢国司の北畠顕康の命により三重郡に数城を築き、自らは禅林寺城に拠り緒城を統括したが、
のちに要害の地であるこの地に移り城を築いたと伝えられる(永徳元年・弘和元年1381に顕親の時に築いたとの説もあるようだ)。
弘治元年(1555)、近江佐々木氏の一族・六角義賢が、小倉参河守を総大将として北勢へ侵攻した際に和睦し、六角氏の執権・
後藤但馬守の弟を千種氏の養子として千種三郎左衛門と称し、千種氏は佐々木六角氏の一味となった。
その後、織田信長・豊臣秀吉に属し、元和元年(1615)千種顕理が大阪の陣で討死して千種家は滅んだ。
尚、「三国地誌」によると、千種家は北勢48家の雄で1千騎の将といわれ、北畠・長野・関・千種・神戸・萱生を俗に「三家三士六人衆」
と称したとある。
『「現地説明板」、「日本城郭大系10」他参照』
現況・登城記・感想等
千種城は比高10mほどの段丘上にあり、主郭部分が城址公園としてそれなりに整備されている。
主郭は50m×50mほどあり、西側と南側を高さ2m前後の土塁が囲んでいるが、北側には土塁は見られず自然崖になっている。
東側が虎口になっており、その両側には高さ2mほどの土塁が続き、城内側には幅7m、深さ2mほどの空堀が掘られ土橋が架かっている。
その土塁の外(東)側にも空堀跡と土橋が見られ、その東側は狭い平坦地になっている。
その平坦地の東側は削り取られたような急崖になっており、現在は下から石段で登ってこれるようになっている。勿論、
この石段は往時にはなかったであろう。
石段下の脇に石碑と説明板が建てられているが、石碑は主郭の西側の土塁前にもやたらと立派な石碑が建てられている。
(2010/01/24登城して)
ギャラリー
主郭
主郭の南西部角の土塁上から撮ったものである。東側(写真奥)に土塁と虎口、土橋、空堀が見える。また、
南側(写真右)と西側(写真左手前)にも土塁。
主郭東側の土塁・空堀・土橋
主郭の東側が虎口になっており、その両側には高さ2mほどの土塁が続き、城内側には幅7m、
深さ2mほどの空堀が掘られ土橋が架かっている。
主郭東側土塁の外側の空堀と土橋
主郭東側土塁の外側にも、かなり埋まってはいるが空堀があり土橋も架かっている。
やたらと立派な石碑
主郭西側の土塁の前には、ゆうに高さ5mはある立派な石碑が建てられている。上を見上げたら、
鷹がとまっていたので一瞬本物かと思い焦った(苦笑)