伊賀 福地城(伊賀市、旧伊賀町)

本丸虎口(表門)の石垣

松尾芭蕉の祖福地氏の城、天正伊賀の乱では伊賀を裏切り信長の道案内役を

別名

城の腰城

所在地

三重県伊賀市(伊賀町)柘植町字浦出(芭蕉公園)
【行き方】
国道25号(名阪国道)伊賀インターを下り、旧国道25号を約1km西進した信号を左折する(左手に案内板有り)。そこから200m程南下して左折し、約200m登った突き当りが城址である芭蕉公園で、説明板と石碑が立っている。説明板の前に4~5台ほど置ける駐車スペースがある。

形状

平山城

現状・遺構等

現状:芭蕉公園
遺構等:曲輪、土塁、石垣、虎口、井戸、石蔵、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2010/01/26

歴史等

福地城の起源は定かではないが「満済准后日記」の正長2年(1429)2月の条に、国人柘植三方、日置・北村・福地とあり、福地氏は南北朝時代に北朝に与し、この土地の豪族として活躍していたと思われる。
その後、文献上に現われるのは、天正9年(1581)の第二次伊賀の乱で織田信長に与し、伊賀を裏切ったことである。
天正の伊賀の乱では、伊賀の土豪たちは力を合わせて信長と戦ったが、福地氏は、天正9年7月、信長の居城安土城を訪ね、伊賀攻略の道案内役を買ってでたのである。
その為、伊賀の郷士は信長軍に完敗し、伊賀一円は灰燼に帰した。
戦後、この地に帰った福地伊予守は、郷士の人々の憎しみを一身に受け、また貴重な神社・仏閣を焼いた恐れから、城にいたたまれず、一族共々他国に逃亡した。
その子孫は、江戸時代、伊賀者として活躍したともいわれ、この地に残る松尾家も福地氏の一族で、俳人松尾芭蕉もあるいは忍者であり、隠密であったという説もある。
『日本城郭大系10より』

現況・登城記・感想等

福地城址は、福地氏一族の出身と伝わる俳人松尾芭蕉の名前を冠した「芭蕉公園」として整備されている。
昭和39年の名阪国道の建設で一部破壊されたが、削られたのは南東部のほんの一部で、ほぼ完存していると云えるだろう。
掻揚げ式の城で、本丸周囲をめぐる土塁と堀、そして穴太積みの石垣が組まれた虎口等々の遺構が良好に残っている。
また、本丸周辺の曲輪や堀等も良好に残り見応え充分な城址である。
(2010/01/26登城して)

ギャラリー

石碑と説明板
正面奥上に城址がある。左に見える城址碑の横の石段を登って行く。

いきなり石垣が
登り始めると、いきなり右手に石垣が現われるが、どうやらこれは公園整備にあたって築かれたもののようだ。その湾曲した石垣に沿って進むと、本丸虎口(正面奥)へ出る。

本丸虎口(表門)石垣
本丸南西部には穴太積みの石垣が組まれた重厚な虎口があるが、その石垣は1辺50~60cmの石を用いた見事なものである。

本丸
福地城は掻揚げ式の城で、本丸周囲を土塁がめぐっている。本丸内部の広さは70m×30mで、「芭蕉翁生誕之地」の碑(右写真)や句碑など、やたらと多くの石碑が建てられている。

土塁(本丸虎口横)
高さは3~4mほどあり、幅も広いがっしりした土塁である。

一部破壊された南東部には名阪国道が
本丸南東部の土塁上から見下ろした写真である。昭和39年の名阪国道の建設で南東部の一部が破壊されたが、土塁下の空堀は一部残っているようだった。

土塁上(北東部)
本丸周囲の土塁の上を歩いて一周できる。

北側の土塁
土塁は全般的に幅が広いが、特に北側の土塁は幅が広い。櫓か何らかの建物が建っていたのであろうと思われる。左側に見えるのは井戸の屋根である。

井戸
本丸北西部には井戸が残り、今も水を湛えている。

枡形虎口石垣? or 石蔵
北東部には小規模ながら、石垣で組まれた枡形虎口があり、石段で土塁上に登って行けるようになっている。ただ、説明板によると「本丸内部には石蔵跡が残っている」とあったので、この石垣は虎口ではなく「石蔵」なのかも?

本丸西側の横堀
虎口手前の左手には幅3~4mの横堀を配している。横堀は曲輪の周囲を西~北~東にかけてめぐらしている。

本丸北側の空堀

本丸の北西の配された出丸
本丸周辺には、曲輪跡が何箇所か残っているが、中でも北西に残る出丸は、低いながらも3方に土塁が残り、また周囲の堀も見応えがある。

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