播磨 明石城(明石市)

三の丸跡から坤櫓(左)と巽櫓を望む

徳川秀忠が西国諸藩への備えとして藩主小笠原忠真に築城を命じてできた大城郭

別名

喜春城

所在地

兵庫県明石市明石公園
【アクセス】
JR明石駅のすぐ前(北側)にある明石公園が城跡です。駐車場は幾つかありますが、私は城跡の北側(公園内)にある県立図書館の北の県営駐車場に停めました。

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 明石公園
【遺構等】 現存櫓2基(巽櫓・坤櫓)、移築城門、城壁、曲輪、石垣、水堀、空堀、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2006/10/09

歴史等

元和3年(1617)、小笠原忠真が信州松本より明石に国替えとなり、現在の明石城より南西1km程の所にあった船上城(ふなげじょう)に入ったことから明石藩が生まれた。
現在の明石城は、元和4年(1618)徳川2代将軍秀忠が、西国諸藩に対する備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるよう命じ、3ヶ所の築城候補をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀1千貫目(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。
石垣の普請は元和5年(1619)の正月に始められ、工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、三の丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年8月中旬に終わり、幕府より派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。幕府直営工事は本丸、二の丸、三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。
普請を終え、同年9月から藩主忠真により、櫓・御殿・城門・塀などの作事が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城になった伏見城及び同国の三木城などの資材を用いて建てたとされている。各建物の建築は翌元和6年(1620)4月に完了した。
築城当時の明石城は、本丸に御殿を築き、4隅に三重の櫓を配したが、天守台の石垣は築かれたものの、天守閣は築かれなかった。
寛永9年(1632)、忠真は15万石に加増され豊前小倉に移った。小笠原氏のあと、松平(戸田)康直・光重、大久保忠職、松平(藤井)忠国・信之、本多政利と交替し、天和2年(1682)越前大野から松平直明が入封し、松平氏が10代続いて幕末まで在封する。
慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いが始まると、明石藩は兵を京都へ急派したが、実践に間に合わず砲弾を一発も発しなかったが、徳川加担と見られ、新政府の山陽道鎮撫軍の攻撃を受けようとしていた。藩主慶憲は、本家の越前福井藩慶永(春嶽)の助けを借りて、危うく攻撃の手をまぬがれた。
『「現地説明板」、「大名の日本地図(中嶋繁雄著、文春新書刊)」参照』

現況・登城記・感想等

往時の城域がほとんど残されて明石公園となり、本丸や二の丸を中心とした城郭部の他に、野球場・陸上競技場・自転車競技場・テニスコート・図書館・芝生公園等々となっている。実に広大な素晴らしい公園である。
勿論、私にとって大事な城郭部も実に素晴らしくよく残されている。巽櫓と坤櫓(ひつじさるやぐら)の2基の櫓は神戸の大震災で壁が崩れ落ち無残な姿になったそうだが、今では実に美しい姿を見せてくれている。また、各所にある石垣(特に、各虎口の石垣が実にきれいである)や水堀も実に美しい。そして、よく見ると現在城郭部として残っている箇所以外にも石垣や堀がよく残っている。往時の城郭が如何に壮大なものであったかがよく分かる。
また、当日は巽櫓を公開していたので中に入ることができ、強烈な急な階段やしっかりした梁を見ることが出来た。巽櫓内から見る坤櫓は城壁とその下の石垣とも相俟って良かった。
(2006/10/14登城して)

ギャラリー

明石城(兵庫県立明石公園)の図 ~画面クリックにて拡大~
00明石城縄張図

【登城記】
明石駅前に駐車場が見つからなかったので、城跡の北側(明石公園内)の県立図書館の北にある県営駐車場に車を停めて登城しました。
石垣の一部
県営駐車場に車を停めて明石城主郭部のある南の方へ向かって歩いて行くと、途中に土塁跡や石垣の一部が残っていました。当写真の石垣は、外郭部の石垣と思われます。
石垣

集積された石垣の石
発掘調査や復元のためでしょうか、石垣の石が集積されていました。
集積された石垣の石

虎口石垣
さらには虎口石垣も確認されました。
門跡

薬研堀
そして、左手に大きな池が見えて来ます。東ノ丸の北東の薬研堀です。右奥に見える石垣は東の丸東虎口の石垣で、往時は先端部には櫓が建っていました。
薬研堀

東の丸北虎口
なかなか見事な枡形虎口石垣ですが、阪神大震災で崩れたあとで積み直したせいか、一部石垣の継ぎ目がセメントで補強されています。 
東ノ丸北虎口

東の丸東虎口
北虎口のすぐそばには東虎口があります。 
東の丸東虎口1

東の丸帯曲輪への虎口
東の丸東虎口は、帯曲輪を経由して連続枡形虎口になっています。この虎口の北側石塁上には櫓が建てられていたようです。
東の丸東虎口

東の丸東虎口へ向かう土橋
東の丸へ入城するには、土橋を渡って東の丸東虎口へ向かうことになります。 
東の丸虎口へ至る土橋

箱堀
土橋の南側は箱堀、北側は薬研堀です。
箱堀

東の丸
東の丸

東の丸南櫓台
東の丸の南隅には櫓が建てられていたようです。
東の丸南櫓台

東の丸から二の丸への喰い違い虎口
東の丸から二の丸への喰い違い虎口

二の丸虎口から巽櫓を
東の丸と二の丸の間には、三の丸から登って来る坂道があります。恐らく、ここが大手道なのでしょう。
二の丸から巽櫓を

二の丸
二の丸跡は、綺麗に造られた庭園になっています。左上に見えるのは巽櫓です。
二の丸

二の丸から本丸へ
二の丸から本丸へ向かいます。ここが本丸大手口なのでしょう。
二の丸から本丸へ

本丸跡から巽櫓を
本丸の南東端に築かれた三層の櫓です。桁行き5間(9.09m)、梁間4間(7.27m)、高さ1寸(12.19m)の隅櫓で、妻部を東西に置く入り母屋造りです。船上城から移築されたものです。
17巽櫓

巽櫓内の急な階段と立派な梁
どの城も階段は急ですが、ここの階段は特別急でほとんど垂直に近いような気がします。
19巽櫓内

巽櫓から坤櫓を
巽櫓が特別公開のお陰でこの角度からの写真が撮れました。
坤櫓

本丸
本丸

本丸から坤櫓を
坤櫓は伏見城から移築されたものと伝えられています。阪神大震災ではこの櫓も被害を受け、下の石垣を積み直すために、レールに乗せられて、50mほど奥に移動させられたといいます。
13坤櫓

坤櫓(天守台下の稲荷曲輪への虎口付近から撮影)
坤櫓は天守閣が造られなかった明石城では最大の規模をもつ櫓です。天守台のすぐ南にあり、天守閣に変わる役割を果たしたとみられます。桁行6間(10.90m)、梁間5間(9.09m)、高さ7間2尺9寸13.60m)、の入り母屋造りで、妻部を南北に向け、棟の方向が巽櫓とまったく異なっている。昭和57年の大改修で、構造上、他から移されたものであることが明らかになり、伏見城からの移築説が裏付けられました。
11坤櫓

天守台
明石城は天守台の石垣は築かれたものの、天守閣は築かれませんでした。
15天守台

稲荷曲輪(天守台上から撮影)
稲荷曲輪

㊧坤櫓(左)と巽櫓(右)
太鼓門を入った三の丸跡から撮影。
09未櫓と巽櫓

太鼓門枡形跡
中堀中央の橋を渡ると太鼓門に出ます。この写真は城内側から撮ったものです。太鼓門は三の丸入口で、かつては高麗門を入ると右に折れて櫓門が守りを固めていたそうです。
07太鼓門

中堀(西側)
三の丸南側を守る中堀です。明石城は、かつては内堀、中堀、外堀と三重に廻らせた堀によって守られていたそうです。
03中堀西側

中堀(東側)
05中堀東側

明石の穴子
今日も会社の友人・T井さんに付き合ってもらっての登城でした。明石には美味しい名物が一杯あります。明石とくれば「鯛」「穴子」「蛸」「明石焼き(地元では卵焼き?)」ですが、私はその中でも穴子が大好物です。T井さんも好物だそうで、T井さんのこの満足そうな顔!美味かった~!!

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