模擬隅櫓
脇坂氏が造った風情ある城下町は「播磨の小京都」
別名
霞城
所在地
兵庫県たつの市龍野町上霞城
形状
平山城
現状・遺構等
遺構等:曲輪、復元本丸御殿、模擬埋門、模擬隅櫓、石垣
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2006/10/09
歴史等
龍野城は室町時代の終わり頃、赤松村秀が鶏籠山
(けいろうざん)に城を築いたのが始まりである。村秀は、当時、播磨・美作・備前の国主であった赤松氏の一族として揖東・
揖西郡を治めていた。龍野赤松氏は4代続くが、天正5年(1577)、城主赤松広英の時、
織田信長の中国討伐で羽柴秀吉軍に戦わずして城を明け渡し、その後、蜂須賀正勝、福島正則など豊臣配下の大名が在城する。
その後、慶長初年頃に山頂にあった天守が破却されたという言い伝えがある。
徳川の時代になると、播磨一国は池田氏の領地となり、龍野には城代が置かれた。その後は姫路城に本多忠政が入ると、
龍野には二男政朝が配置されるが、兄忠刻の死により、姫路城に移った。
その後も、小笠原、岡部、京極と続き、万治元年(1658)京極氏が丸亀へ移った後、
14年間、天領となり代官によって支配されていた。龍野城は、江戸時代に現在地に平山城として築かれたが、京極氏は丸亀移転に際して、
城を破却し、城の建物や石材まで残らず丸亀に運んでしまったという。
そして、寛文12年(1672)脇坂安政が信州飯田から入封し、
幕末まで在封した。安政が入部した時には、城・侍屋敷も壊され「城郭の地ことごとく土人の田畑となるありさま」で、
安政自身も城下の商家を居館とし、1年余りで城を再建した。時代は既に太平の世でもあり、元々、外様大名でもあったので、
幕府の嫌忌に触れることを恐れ、鶏籠山麓の御殿式の城を修復した。
近年の調査では山城時代に日常生活をしていた居館が現在の御殿の部分にあたることがわかった。
脇坂氏の祖は、賤ケ岳の戦いに七本槍の一人として名を顕している脇坂安治であるが、最初に入部した安政は、
実は老中として権勢を誇った堀田正盛の次男である。安政の子安照は、元禄14年(1701)3月、赤穂藩主浅野長矩が江戸城で吉良義央に刃傷におよび、
切腹改易となったとき、赤穂城受取りの使者に選ばれた。また、八代目安董は江戸の延命事件や、出石城の仙石騒動を裁くなど幕府の重職に付いていた。
『現地説明板、「歴史文化資料館・パンフレット」、「大名の日本地図(文書新書刊)中嶋繁雄著」等参照』
現況・登城記・感想等
模擬櫓とは云いながら、鶏籠山を背景に見る隅櫓と石垣、そしてその下に長く延びる城壁は、それら全てが交わって、実に素晴らしいし、
絵になる。また、大手の正門になる埋門もなかなかのものである。そして、忠実に復元されたという本丸御殿も立派である。
しかし、それ以上に龍野は、何よりも、この町が醸し出す城下町の雰囲気が素晴らしい。さすがに播磨の小京都と云われるだけのことはある。
落ち着いた武家屋敷の一郭や昔の風情が残った商家や町並みが気持ちを和ませてくれる。今回は時間の都合もあり出来なかったが、
ゆっくり散策するのも良いだろうなと思った。
(2006/10/09登城して)
ギャラリー
大手門(埋門)
正面から。
なかなか威風堂々とした門である。
大手門(埋門)
本丸御殿側から撮ったもの。
復元本丸御殿
昭和54年に再建。
古資料や現在残る数点の古図に基づき再建。
裏門
説明板がなく、
どういう門か分からなかったが、本丸御殿横裏の鶏籠山城への登城口付近にあった。
隅櫓(模擬新築)と鶏籠山
隅櫓は模擬新築とは云いながらも、石垣や城壁、また後にある鶏籠山
(鶏籠山城址)と相俟って実に絵になる光景である。
武家屋敷の落ち着いた佇まい