模擬天守(学習資料館)、土塀と復元石垣
地頭として移ってた秩父丹党丹治氏一族の中村氏の山城
読み方
はがじょう
別名
芳賀城、上野城(かみのじょう)
所在地
兵庫県宍粟市波賀町上野字城
【アクセス】
中国自動車道「山崎IC」から国道29号を北上し、「斉木口信号」のすぐ手前を右折すると、ここから案内板があるのでそれに従えば山頂付近の駐車場に着く。
駐車場からの所要時間
登城口(冠木門)まで約5分。冠木門から山頂部主郭まで約5分
形状
山城(標高458m)
現状・遺構等
【現状】 波賀城史蹟公園
【遺構等】 模擬天守、模擬冠木門、復元石垣、曲輪、空堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2011/11/12
歴史等
11世紀初頭まで、当地は伯可荘として石清水八幡宮の荘園になっていた。ここに初めて城を築いたのは伯可荘の有力者の芳賀氏の一族であったと推定される。
波賀城は山陽道と日本海側を結ぶ因幡街道や、それと千種を結ぶ街道、3方に通じる街道を眼下にする戦略的に重要な位置にある。
13世紀の中頃、鎌倉幕府の御家人で秩父(埼玉県秩父郡)を本拠とした秩父丹党丹治氏の一族の中村氏や大河原氏が地頭として移ってきた。
中村氏は戦国時代末期まで、20代にわたって波賀城主であったといわれ、波賀城を修理・拡張し、これを拠点にして赤松氏などの支配下で勢力を維持したものと思われる。
現在の波賀城跡は、戦国時代末期に更に拡張・整備した時のものと思われる。また、羽柴秀吉が播磨を制圧した時に、北の守りの拠点としたものである可能性も考えられる。
『現地説明版より』
現況・登城記・感想等
波賀城址は、史蹟公園として整備され、山頂部まで車で登ることが出来る。
城跡山中には至る所に石が転がり、石垣状のものも散見され、また堀跡のような地形もあるが果たして・・・?
頂上部の主曲輪のすぐ下には、観光用の二層模擬櫓(学習資料館)が建てられ、中世と近世の過渡期の特徴ある石垣が復元されている。
模擬櫓下から見下ろす眺望は素晴らしく、この城が交通の要衝であるのがよく分かる。
主曲輪には、祠があるだけだ。
(2011/11/12登城して)
ギャラリー
波賀城遠景
中国自動車道「山崎IC」から国道29号を北上し波賀町に入ると右前方に三角形の独立した山が見え、その上に天守閣が見えてくる。いつもながら思うことだが、山頂に見える天守閣は、模擬とはいえども、なかなか絵になる。
登城口
駐車場から5分程歩いて行くと登城口へ出る。登城口には、冠木門が建てられ、その前に立派な石碑と説明板が立っている。また、その脇に、築300年以上という茅葺きの古民家が移築されている。古民家は、歴史民俗資料館「波賀歴史伝承の家」として開設され、邸内にはひと昔前の生活道具や農作業道具などが展示されている。
空堀?と崩れた石垣?
冠木門をくぐり城内へ入って行くと、左手に多くの石が転がり、中には石垣状のものも散見される。ここに限らず、この城跡山中には至る所に、このような石が転がっているが、果たして・・・・・?
模擬天守(櫓)を見上げる
登城道を少し登って行くと、木で組まれた階段があり、頭上に模擬天守が見えてくる。
模擬天守
天守内は学習資料館になっている。
復元石垣
波賀城の石垣は、全国でも最古式に属し、天正年間(1573~1591)以前の成立が考えられる。 天正年間以前の石垣は、反りはなく、ノリだけの稜線であり、石材はレンガ状の節理にそって割れた横長石が多い。コーナー部をつくる角石、角脇石といった用途別の意識はまだなく算木積みは未発達で、波賀城の「シノギ角」石垣も算木積みが未発達である。
模擬天守下からの眺望
模擬櫓下から見下ろす眺望は素晴らしく、この地が交通の要衝であるのがよく分かる。
主郭
模擬櫓のすぐ上にある主郭には祠が建っているだけである。