水門跡
紀伊徳川家筆頭家老安藤氏代々の居城
別名
錦水城
所在地
和歌山県田辺市上屋敷町、錦水公園
形状
平城
現状・遺構等
現状:市街地
遺構等:水門、石垣、碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2006/01/15
歴史等
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、和歌山城主に浅野幸長が37万石で入ると、
田辺には浅野氏重が入った。
慶長11年(1606)、浅野氏は会津川東河口に湊城を築いた。これが田辺城の基である。
元和5年(1619)、徳川頼宣が紀州を領した際、付家老・安藤直次が、田辺3万8千石で湊城に入城した。直次は湊城を拡張し、
田辺城を築いた。その後、安藤氏が代々紀伊徳川家筆頭家老として明治を迎えた。
『現地説明板参照』
現況・登城記・感想等
長崎時代の仲間との会合が和歌山市内であり、無理を言って付き合ってもらったが、城址は徹底的に破壊され、
小さな公園に水門跡が残っているだけで、他には全く何も残っていなかった。皆に申し訳ない気持ちのみであった。
和歌山市内からもっと近くのつもりでいたが、遠い遠い。和歌山県は本当に広い。それと、地元・田辺では、錦水城というのが一般的なようで、
田辺城の場所を尋ねてもなかなか通じなかった。
また、田辺市内には弁慶や南方熊楠に関係する史跡(闘鶏神社等々)があり、こちらには多くの人が訪れていた。
(2005/01/15に訪城して)
ギャラリー
田辺城建物図(現地説明板より)
錦水公園
水門
闘鶏神社内にある湛僧・弁慶父子像
南方熊楠が多くの植物を採集したという闘鶏神社裏の仮庵山を背景に。南方熊楠の信奉者・Y輔君