本丸跡(奥に櫓台)
毛利元就が幼少期を過ごした城
正式名称
多治比猿掛城
所在地
広島県安芸高田市吉田町多治比
形状
山城(標高:376m、比高120m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪跡、土塁、堀切、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2002/02/09
歴史等
築城年代は定かではないが、明応年間(1492~1501)に毛利弘元によって築かれたと云われている。
元就は4歳の時、明応9年(1500)家督を長子・興元に譲り隠居した弘元に連れられて、吉田郡山城から移り住んだ。
永正3年(1506)に弘元が39歳で没し、多治比領と猿掛城は元就が相続した。
大永3年(1523)27歳のときに、甥の幸松丸夭逝のあとをうけて、毛利家の家督を継承しふたたび吉田郡山城へ移った。
以後、猿掛城の歴史については詳細は伝わっていない。
『現地案内板参照』
現況・登城記・感想等
この城は毛利元就が青年時代(4歳~27歳)の不遇時代を過ごした城で有名である。
元就は5歳で生母、10歳で父親・弘元と死に別れ、後見人には横領されるはで、天涯孤独でこの山麓に住み、
弘元の側室に育てられたそうである。これら元就を取巻く父母・養母の墓もあるらしいが、今回は廻れなかった。
猿掛城は登山口から10分ほどで寺屋敷曲輪跡に着き平坦部が確認できる。本丸曲輪群とは幅6m~7mもの広い竪堀にて遮断されている。
更に10分ほど登ると頂上の本丸跡があり、北端に櫓台(10m四方高さ3m)がある。ここから郡山城が見える。
さらに標高529mの烏帽子山の山頂に物見丸があるとのことだが、1時間弱かかるらしいので諦めた。この城は、毛利の本拠地ではないものの、
堀切もかなり深く、規模もかなり大きいようだ。
(2002/02/09登城して)