鯱の門と続櫓
龍造寺氏の村中城を、鍋島直茂が大修築、鍋島家11代257年の本拠
別名
栄城、亀甲城
所在地
佐賀県佐賀市城内1丁目
形状
平城
現状・遺構等
遺構:鯱の門と続櫓(現存)、本丸御殿(復元)、天守台、本丸石垣、堀(北・西・南の大部分が残り、東堀は埋め立てられた)
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2002/02/15
歴史等
佐賀城はもともと龍造寺氏が居城としていた村中城を改修・拡張したものである。九州北部に覇を唱えていた龍造寺隆信は天正12年
(1584)に島原にて島津・有馬連合軍に敗れて戦死し、家臣の鍋島直茂が実権を握った。しかし、慶長12年(1607)
まで主家龍造寺政家・高房が存命で、名目的には龍造寺氏の居城あったため、蓮池城を鍋島氏の本拠としていた。
佐賀城は、江戸幕府政権下で正当に佐賀藩主として認められた後の、慶長7年(1602)本丸の建築にはじまり、慶長16年(1610)
まで10年の歳月を費して完成した。内堀の幅は80mにも及ぶ広壮なもので、5層の天守も建造された。そして、
元和の一国一城令でかつての居城蓮池城は破却された。
佐賀城は江戸期、数度火災に見舞われた。天保6年(1835)の失火では二の丸を全焼、この後、二の丸の再建とともに、享保11年
(1726)に全焼した本丸の建設が始まった。現在の鯱の門はこのとき、本丸出入りの門として建てられたもので天保9年(1838)
に完成したものである。なお、天守は享保の火災以後再建されていない。
明治7年(1874)江藤新平を中心とした佐賀の乱が起こり佐賀城はこの反乱軍に一時占拠された。この戦闘の際に建造物の大半を失った。
なお、鯱の門には当時の弾痕が現在も生々しく残っている。
佐賀鍋島氏は、初代藩主を直茂の嫡男勝茂として、11代257年続いて明治に至った。
『参考:佐賀城印刷物、フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』
現況・登城記・感想等
遺構としてはそれほど多くは残っていないが、水堀の幅の広いのには驚いた(80mもあるらしい)。まさに、「これがお城のお堀だ」
といった感じである。
そして、建造物の唯一の遺構である「鯱の門とその続櫓」は大きくて形も良く、また、その続櫓の切込みハギの石垣が色彩も含めて素晴らしい。
往時の佐賀城の壮大さを見る思いである。
また、当日は本丸一帯の発掘調査が行われていたし、本丸御殿の復元が計画されているようであった。現在、整備されどうなっているのか、
再登城して見てみたいものである。
(2002/02/15登城して)
ギャラリー
佐賀城絵図
天守台
天守台上の建物は、明治時代の建造物「協和館」。サークル活動等に利用されていたが、
解体されることが決定されたそうである。今はどうなっているのだろうか?
天守台石垣と鯱の門
鯱の門
発掘調査中の本丸跡
南側の内堀
堀幅が80mもあるそうである。本当に立派である。