武田勝頼が初の城主となり、弟仁科盛信が壮絶な討死を、今は高遠桜の名所
別名
渭山城・兜山城
所在地
長野県上伊那郡高遠町東高遠
形状
平山城(標高:800m、比高:50m)
現況・遺構
現況:高遠町城址公園
遺構:石垣・空堀・土塁・郭跡・再建太鼓櫓・移築城門
満足度(10点満点)
7点
訪城日
1993/05/04
2006/04/16
歴史等
正平年間(1346~1369)、諏訪(高遠)信員の築城説が有力とのことである。以来、この地方の名族・
諏訪氏の一族である高遠氏が居城としていたが、天文14年(1545)4月、7代高遠頼継は武田信玄に攻められ降伏した。
信玄は高遠城を伊那地方への進出の拠点とするため、天文16年(1547)、山本勘助・秋山信友に命じて大規模な改築を行ない、
秋山信友らを城主とした。
永禄5年(1562)には武田勝頼が城主となったが、元亀元年(1570)武田信玄は勝頼を自分の後継者として甲斐に戻らせ、
信玄の弟信廉が城主となる。次いで天正9年(1581)には勝頼の弟の仁科盛信が高遠城主となる。
天正10年(1582)2月織田信長は信玄亡きあとの武田氏を一挙に滅ぼすために伊那口から長男信忠の率いる5万の大軍を送り込んだ。
この大軍に恐れをなした伊那谷の城主は城を捨てて逃げ、或いは降伏して道案内をするなど織田軍は刀に血を塗らずして高遠に迫った。
36歳の青年城主仁科五郎盛信(信玄の5男)は降伏を勧める僧の耳を切り落として3千の手兵をもって敢然としてこの大軍を迎え撃った。
要害堅固をもって響いた城であり、城主盛信以下将兵の決死の奮戦も17倍の兵力の前には、如何ともし難く3千の兵はことごとく討ち死にした。
城主盛信は腹を掻ききり、自らの手で腸を壁に投げつけたと古書は伝えている。武田勝頼は諏訪上原城から新府に退き天目山で自害し、
高遠城の戦いは武田滅亡の最後の華々しい、そして悲しい戦いの場となった。この合戦の9日後に武田勝頼が天目山で自刃し、武田氏が滅びた。
織田氏の支配のもと、毛利秀頼が城主となるが、その3ケ月後に本能寺の変が起こり、高遠城に突如木曽義昌が攻め込み占領した。以後、
徳川家康と義昌の攻防の後、義昌は高遠城を追われて深志城
(松本城)に撤退した。
徳川の時代には、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主は交代したが、元禄4年(1691)内藤清枚(きよかず)が3万3千石で入封。以後、
高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎える。
『現地案内板参照』
訪城日
1993/05/04
2006/04/16
感想等
桜の名所として有名な高遠城であるが、移築城門や再建櫓をはじめ石垣・曲輪跡等々見所は多い。しかしながら、当時 (1993/05/04)はあまり城というものに興味がなく、よく憶えていないというのが正直なところである。花見にはちょっと遅めであり、 ほぼ散り終わっていたが、満開時には全山(全城址)がピンクに染まり見事なようである。また、 高遠の町並みや南アルプスの山並みの眺望もなかなかのものである。この城は、武田勝頼・仁科盛信兄弟の悲運の城であることもさりながら、 遺構も見所が多いにも関わらず、意識しては見ていない。桜が満開になる4月後半に再度訪城したいものである。 (1993/05/04登城して)
念願の高遠の花見に行ってきました。全体的には一部咲きといった感じでしたが、南ゲートの辺りはかなり咲いていました。 一番の見どころである白兔橋や桜雲橋の辺りはまだ蕾でした。大変な人の数で、城址の写真も人ばかり写ってしまい満足に撮れなかった (桜は一部咲き、人は満開)。やはり、花見時の登城は無理がある。しかし、全山桜の高遠城は素晴らしかった。 (2006/04/16日2度目の登城をして)
ギャラリー
謎の三重塔!! 天守閣? ~クリックにて拡大画面に~
天守を模したような三重の塔が見えるが? これは一体何なのでしょうか?
天然の深い堀(三峰川) この崖は凄い!
こちらからは絶対に攻撃は不可能であろう。
南ゲートからさあ登城。最初に出くわす法幢院曲輪
(人が多すぎて撮影が難しい)
白兔橋(はくとばし)㊧、 白兔橋下の堀㊨ 満開なら1,
2を争う見どころ
南曲輪
南曲輪・本丸間の堀(ここも残念ながら桜はほとんど蕾)
本丸跡(後方にわずかに石垣が保存され残っている)
太鼓櫓(もともとは搦手門内にあった太鼓櫓。
現在の建物は明治45年のもの。太鼓は張り替えられて管理事務所である高遠閣に保存されている。)
本丸跡にわずかに残る石垣
新城藤原神社(盛信神社)
新城神社前の奥方井戸跡
あまりの混雑でこんな所まで昼食用のテーブル代わりにされている
問屋門
桜雲橋
二の丸
高遠閣
昭和11年(1936)に完成し現在は国の登録有形文化財となっている。城の遺構ではない。
二の丸と三の丸の間の空堀。堀の向こうが三の丸。
勘助曲輪跡
(比較的大編成の兵力を集結させるところであったようである。それも今では、大型バス専用の駐車場になってしまっている。それにしても、
すごい数の観光バスである。)
笹曲輪
絵島囲み屋敷
絵島は6代将軍家宣の側室で7代将軍家継を産んだ月光院に仕えた大奥の年寄であるが、
役者生島新五郎とのスキャンダルによって大奥を追放されてこの高遠藩に預けられ、死ぬまでここで過ごした。絵島囲み屋敷は、
絵島が高遠で流刑生活を送った屋敷を当時そのままに復元したもので、格子などで厳重に囲まれた質素な屋敷である。当時、
絵島は昼夜を問わず10人近くの武士・足軽たちに見張られていたという。
高遠城の桜・桜・桜・・・
このわけの分からない建物も、桜が加わると絵になる