本丸背後の堀切、遥か下には千曲川が
大井一族5代100年の居城、依田信蕃が討死した城
所在地
長野県佐久市鳴瀬
【行き方】
県道75号線と県道103号線が交差する北岩尾信号を西へ約200m行くと小さなアパートがある。その横の細い路地を左(南)
へ曲がり約40m。駐車場所はない。私は、交差点にある「デイリーストアー」で店主さんの許しを得て駐車させてもらった。
形状
平山城(標高659m、比高約20m)
現状・遺構等
現状:神社、山林
遺構等;曲輪、土塁、石積み?、堀切、標柱、遺構案内板、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/12/25
歴史等
岩尾城は、室町時代中期の文明10年(1478)に、佐久郡大井庄の地頭大井氏の支族・大井行俊が、岩村田館守護のために築城し、
戦国時代末期までの約100年にわたり、大井氏一族の5代に及ぶ居城として使用された。
天文11年(1542)以後、破竹の勢いで信濃侵攻を進めた武田信玄は、諏訪氏を滅亡させ、天文15年(1546)
には佐久郡の緒豪族を相次いで降伏や滅亡に追い込み、小諸城・
内山城・岩尾城・前山城・
平原城・芦田城・与良城・小田井城・望月城などの諸城を奪った。岩尾城は、城主大井行頼自ら開城したという。そして、
信玄はこの岩尾城を一時真田幸隆に守らせたという。
天正10年(1582)武田氏が滅亡し、織田信長も本能寺の変で倒れ、佐久の諸城が次々と徳川氏の手に帰していくなかで、
北条氏に従った岩尾城の大井行吉は、依田(芦田)信蕃があずかる徳川勢に迎撃の態勢を示した。家康の麾下となり、
佐久地方平定の先導役をつとめ、胸を反らしてのし回る信蕃に対する反感があったのである。
天正11年(1583)、信蕃は陣頭に立ち岩尾城本丸の土塁へ駆け上がった時、狙い撃ちの鉄砲に仆され、また弟の信則(信行)も戦死した。
城主行吉は信蕃を討ち取ったことに満足して城を捨て去ったという。
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」他参照』
現況・登城記・感想等
岩尾城は湯川と千曲川のふたつの川に挟まれた段丘上に築城されている。段丘周囲は急崖になっているが、
東側だけ高低差のない地形で大手になっており、東側から三の丸、二の丸、本丸と段々高くなって続き、本丸が最高所となっている。
二の丸と三の丸は現在、神社(伊豆・箱根・三島神社)境内となっている。
社殿の裏が本丸跡で、土塁や石垣がある。土塁はともかく石垣は往時のものかどうかは分からない・・・。本丸跡はかなりの藪で、
今回は冬場だったので入って行けたが、夏場だと入って行くのは厳しいかもしれない。
さらに本丸の奥(西)には堀切が切られ、その奥(西)にも曲輪(西丸)があり、その奥の下には琵琶島曲輪もあるらしい。
この堀切の上から眼下に千曲川を見下ろすと、この城がかなりの要害の地にあることに気が付く。
また、三の丸の東側には三日月堀跡があるが、現在は畑になっている。
(2008/12/25登城して)
ギャラリー
岩尾城全景
岩尾城は湯川と千曲川(手前の川)のふたつの川に挟まれた段丘上に築城されている。
三日月堀
細い路地を入って行くと、この三日月堀へと出るが、畑になっている。この辺りは三の丸でもあるようだ。
奥の土塁上が二の丸。
三の丸
三の丸入口には、伊豆・箱根・三島神社の鳥居が建っている。そこを入って行くと、
城跡碑と両側に説明板が立っている。
二の丸手前の堀
二の丸は三の丸より一段高く、左手前には堀跡があるが、案内板がない!?
㊧二の丸、㊨二の丸南下の崖
㊧二の丸奥には神社社殿が建っている。㊨両側は急崖になっている。
写真は本丸から二の丸南下の崖を撮ったもので、強烈な崖になっているのが分かる。
石垣?
社殿の裏は二段になっており、石垣があったが、これは後世のものだろう!?上段土塁(写真奥)の上が本丸。
本丸土塁
土塁には所々に石が見えたが、石積みの名残だろうか?強烈な逆光でまぶしい。
本丸土塁石積み?
上写真を登った所に、土塁があり、このような石積みで囲まれているが、土塁は兎も角、
石積みは往時のものかどうかは分からない!?
本丸
本丸跡はかなりの藪で、今回は冬場だったので入って行けたが、夏場だと入って行くのは厳しいかもしれない。
本丸背後の堀切
本郭の奥(西)には堀切が切られ、その奥(西)にも曲輪(西丸:堀切の右)がある。
この堀切の上から眼下に千曲川を見下ろす(表紙写真参照)と、比高差以上に、この城がかなりの要害の地にあることに気が付く。