上野 膳城(前橋市)

本丸と二の丸間の空堀

武田勝頼による有名な「素肌攻め」で落城した城

所在地

群馬県前橋市粕川町膳(粕川歴史民族資料館を含む一帯)
粕川歴史民族資料館:電話027-230-6388

形状

丘城

現状・遺構等

現状:県史跡、歴史民族資料館、前橋市粕川出土文化財管理センター、宅地、畑地他
遺構等:曲輪、土塁、空堀、物見台、土橋、馬出し、石碑、遺構案内板、説明板

満足度

★★★★☆

訪城日

2008/12/20

歴史等

鎌倉時代前半を扱った「吾妻鏡」に善氏の名が随所に見えるが、膳城に居城していたかは定かではない。その後も、 室町時代から戦国時代にかけての古文書に善氏がしばしば登場する。
膳城の名が最初に文献に現れるのは「応仁武鑑」で、民部小輔倫乗が城主であったというが、築城年代は明らかではない。
15世紀中葉に書かれた赤堀孫太郎政綱忠事に、「右去享徳四年(1455)二月十五日夜善信濃入道同三河守庶子等在所悉焼落」 とあることから、この夜襲で焼失した善一族の在所は、膳城かその付近であったと思われる。
また、桐生地方史によると、天文13年(1544)善因幡守の妹の夫で小俣城主細川内膳が桐生祐綱に攻められ自刃したことから、 因幡守は報復に桐生へ攻め寄せたが、敗れて膳城へ逃げ帰ったとある。
その後、東毛地方は上杉謙信が統治をするようになり、以後、膳備中守宗次は謙信に従った。
元亀3年(1573)、備中守は謙信の命を受け小俣城を攻めるが攻略できず討死し、逆に太田金山城主・ 由良氏の配下の新田、足利、小俣氏に攻められ開城することとなった。以降、膳城は由良氏の支配下に入り、元大胡城主・ 大胡民部左衛門が守ることとなった。
それから7年後の天正8年(1580)武田勝頼は、前橋城大胡城、 伊勢崎城、山上城などの諸城を攻略した。
勝頼軍は、人々に不安を与えないよう平服のまま東毛を巡視中、膳城にさしかかったところが、城内は酒盛りの最中で、 二手に分かれて喧嘩をしていた。
そんな中、城の周囲を居丈高に馬で乗り回し、引き上げてゆく武田勢に腹を立てた城兵が討って出た。武田勢はこれを迎え撃ち、 平服のまま城内に討ち入って城主大胡民部左衛門を討ち取り、落城となった。これが有名な「膳城の素肌攻め」である。素肌とは、「平服のまま」 という意味である。
膳城はこの戦いの後、廃城となったと伝えられる。
『「粕川村村史」、「粕川村の城跡・宮崎高志」、「現地説明板」他参照』

現況・登城記・感想等

膳城は、往時は南北550m、東西300mもの規模の城郭であったようだ。今では外郭の多くは宅地等に蚕食されているが、 本丸と二の丸周辺は実に良好に残っている。
曲輪の残存状態も悪くないが、何と言っても、それらの曲輪を取り巻く、空堀遺構は圧巻である。諏訪原城 (静岡県)や小幡城 (茨城県)と比べると、規模では劣るかもしれないが、美しさという点では膳城の方が上かもしれない。
兎に角、折れのあるその空堀の姿は実に美しい。今まで見た城址の空堀の中で、最高に美しいと言っても過言ではない。
城跡の中を歩き廻りながら、ここの空堀が素晴らしい、ここも素晴らしいと、何度も立ち止まって魅入ってしまい、何枚も写真に撮ってしまった。
(2008/12/20登城して)

ギャラリー

縄張略図     ~クリックにて拡大画面に~
(粕川村村史、宮崎高志・粕川村の城跡より)
南北550m、東西300mもの規模の城郭であったようだ。今では外郭の多くは宅地等に蚕食されているが、 本丸と二の丸周辺は実に良好に残っている。

主郭部の縄張略図

歴史資料館&出土文化財管理センター
膳城址へは歴史資料館を目標に来ると、城郭風の建物が現れる。左が資料館、右奥が文化財管理センターである。 資料館の辺りは、膳城の外郭部で、管理センターは北郭の一角である。ます、パンフを貰いに資料館に寄ったが、 パンフはないとのことであったが、ここの事務の方が本当に親切な方で、膳城に関する非常に多くの資料のコピーをとってくれた。 車も資料館の駐車場に置かせてもらい、管理センターの方から入って行った。


【空堀群】
膳城址の魅力は何と言っても、主郭部の周りを取り巻く見事な空堀群であろう。空堀はいずれも深さ約7m、 上部幅約10mもある立派なものばかりだ。

北郭南西部の復元空堀(北側)
管理センターへの入口両側に早速空堀が現れる。右奥へと廻っているのが分かる。 管理センター建設前の発掘調査では、掘立柱建物や井戸等が検出され、この復元空堀の下には、本丸から北郭へと延びる空堀が確認された。また、 北郭の北西部では内外2本の空堀が出現し、外堀には畝堀も確認されたそうだ。

北郭南西部の復元空堀

本丸と二の丸間の空堀
上写真の空堀に沿って、城址である南の方へ歩いて行くと、いきなり折れが綺麗な、 この素晴らしい空堀が見える。この時点で、ワクワクしてきた。早速、堀底へ下りて行った。表紙写真は、下りて行った所から撮ったもの。

二の丸北側の空堀
この空堀は直線であるが、良好に残る姿が見事だ。奥の方で左の方へ曲がっている。

本丸と物見台間の空堀
二の丸南東部から撮ったもので、左奥が本丸、右が物見台。

本丸南西部の空堀
二の丸南東部から撮ったもので、空堀の向こうが本丸、左側に二の丸、写真には写ってないが、 右手前には物見台がある。

本丸北側の空堀
奥の袋曲輪東側の空堀へと続くこの空堀も折れが見事だ。

本丸南東部の空堀
右手前は本丸、奥が三の丸跡であるが、この辺りの堀は、かなり埋まってきている。また、 三の丸は宅地化によりかなり蚕食されてきている。

二の丸北西部・ 袋曲輪間の空堀
写真奥の細長い不整形な曲輪が袋曲輪で、空堀と袋曲輪が二の丸の北西部から北部を守るように周っている。

袋曲輪外側の空堀
西虎口横から袋曲輪の外側を周っている。


【曲輪】
外郭の多くは宅地等に蚕食されているが、本丸と二の丸周辺は実に良好に残っている。

本丸
本丸は、城郭の中央にあり、南北60m、東西40mのほぼ方形で、北東部がわずかに突出し、 西側には折れがある。

石碑と説明板
本丸の中央には築庭があり、その中に立派な石碑が立っている。また、本丸への東虎口を入ってすぐの所には、 三角形の小さな「本丸」石碑が立っている。
 

本丸東虎口
本丸への虎口は東と西南にあったようで、東虎口には幅の広い土橋が架かっている。 西南の虎口は二の丸へと通じる橋が架かっていたようで、堀底に橋脚台の隆起があるとのことだが、あまりにも落ち葉がすごく分からなかったし。 また、虎口そのものも分かり辛い。

二の丸
二の丸の北東部から北部にかけては、土塁が残っている。

袋曲輪
西虎口から取ったもので、袋曲輪と二の丸との間の空堀が右(東)の方へ曲がっているのが分かる。


(西虎口)
この辺りまでは、良好に遺構が残っているが、この先は宅地等になっている。

(物見台)
三の丸は、かなり宅地に蚕食されているが、三の丸北西にあったと思われる、この物見台辺りは残っている。

⑯⑰馬出曲輪
本丸の東側の馬出曲輪だと言われる辺りは、ほとんど宅地になっているが、 ㊧北側の空堀と㊨北西部の土塁はよく残っている。
 

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