本丸跡
六分一殿・山名氏発祥の城
別名
寺尾下城、寺尾前城
所在地
群馬県高崎市山名町(山ノ上の碑の北東)
「山ノ上の碑」下に高崎自然歩道(石碑の路)散策用の駐車場有、駐車場から山ノ上の碑経由で主郭まで約15分
形状
山城
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、堀切、竪堀、横堀、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2008/12/20
歴史等
群馬県の城が文献に現れるのは、「吾妻鏡」に「治承4年(1180)9月30日、新田義重が兵を寺尾城に集め、
頼朝の招きに応じなかった」とあるのが最初のようだ。
寺尾城は高崎市南部の丘陵地帯で、寺尾上城(乗附城)、寺尾中城、寺尾下城(寺尾前城、山名城)、鷹ノ巣城(茶臼山城)
からなる城砦群であったようだ。
寺尾城の擬定地としては、新田(現群馬県太田市)説もあるが、現在では、この高崎市の丘陵一帯が寺尾城の城砦との説が有力なようだ。
新田義重は、源義家の孫で、その子・義範が寺尾下城に拠って山名氏と称し、以後8代、城を護ったといわれる。
山名氏は鎌倉幕府倒幕後、足利尊氏に与して勢力を拡げ、「三管四職」の位置を与えられ、
一時は西国を中心に11ヶ国の守護職を任じられるなど勢力を伸ばし、日本全土60ヶ国の6分の1を領したことから「六分一殿」
と呼ばれるほどに成長する。
南北朝時代には、南朝方の尹良親王の関東での橋頭堡として整備され、親王が20余年間寺尾城に立て籠もり、両朝合併後も、
なお抵抗を続けたが、城を攻略され、信州に逃れ、悲壮な最期をとげたとも言われる。
戦国時代には在地土豪の木部氏の木部城の要害城として改築された。永禄11年(1568)、甲相駿三国同盟が崩れ、
後北条氏と武田氏が対立した際には、武田信玄が山名城、鷹ノ巣城(茶臼山城)の間に新城(根小屋城)
を築いた。
木部氏は武田氏に従ったが、武田氏滅亡後は、後北条氏に従った。天正18年(1590)の小田原の役では、木部貞朝は小田原城に入城し、
その後滅亡、山名城も廃城となった。
『「歴史と旅。日本城郭総覧(秋田書店刊)}、「山名城址・根小屋城址説明板」ほか参照』
現況・登城記・感想等
山名城址は、ほとんど連郭式に近い並郭式山城である。各曲輪間には堀切が切られ、各曲輪は独立している。
本丸跡は整備され、石碑と説明板(ほとんど消えかかっている)が立ち、ベンチや展望台が備え付けられている。真冬だったので、
木々の葉が落ちていたので、高崎市街が木々の間から見えたが、眺望は決して良いとは言えない。
本丸以外は、樹木が生い茂る山林となっているが、堀切や空堀、また腰曲輪等々が確認でき、中でも明確に残る堀切は見応えもある。
(2008/12/20登城して)
ギャラリー
縄張略図(現地説明板より)
ほとんど連郭式に近い並郭式山城である。各曲輪間には堀切が切られ、各曲輪は独立している。
登城口
㊧「山ノ上の碑」下に高崎自然歩道(石碑の路)散策用の駐車場がある。登城口には歩道マップの案内板があり、
その前を少し進むと、㊨急な石段へと出るので、そこを登って行く。
山ノ上古墳
石段を登り切ったところに「山ノ上古墳」と「山ノ上碑」がある。「山ノ上古墳」は、
丘陵の中腹の斜面を削り平らにして石室が造られた円墳で、7世紀後半のものだそうだ。
山ノ上碑
古墳のすぐ横の覆屋の中には、古墳の墓碑と見なされる「山ノ上碑」がある。屋内に朝日がもろに差し、
こんな無様な写真になってしまった。
山名城と根小屋城の分岐
古墳のところから、しばらく尾根上を歩いて行くと、右:山名城、真っ直ぐ:根小屋城の分岐点へと出る。
分岐点手前には山名城の説明板が立っている。
堀切
分岐点を右へ曲がり、山名城跡の尾根の下を、しばらく進むと堀切へと出る。尾根上には、
この見事な堀切が現れる。また、この堀切は竪堀となって山裾へと落ちていっており、写真に撮ったが、
藪で何だか分からないような写真になったので省略。
本丸西の堀切
さらに、少し進むと本丸西の堀切へと出る。この堀切もかなりしっかりした堀切で、見応え充分である。
本丸へ
堀切から本丸へと登る階段が造られていたが、往時の虎口かどうかは定かではない。
本丸
本丸跡は整備され、南隅(写真右側)に石碑と説明板(ほとんど消えかかっている)が立ち、
ベンチや展望台が備え付けられている。
本丸からの眺望
本丸からは、真冬だったので、木々の葉が落ちていたので、高崎の町が木々の間から見えたが、
眺望は決して良いとは言えない。
本丸北側の腰曲輪
本丸北側下には、あまり広くはないが腰曲輪が確認出来る。奥へ進もうと思ったが、結構藪がひどく諦めた。
本丸南側の腰曲輪
本丸南下には結構広い腰曲輪が確認出来る。
本丸南東から東にかけての堀切
この堀切は、写真で見るよりずっと迫力のある堀切で、見応え充分だ。また、右側の土塁は幅も広く、
しっかりしている。
土塁(櫓台?)
上写真の右側の土塁を上から撮ったものであるが、幅も広く、かなりしっかりした土塁で、櫓台だったのかも?
「水戸黄門と山賊」の説明板
山名城と根小屋城の分岐点の少し先に「水戸黄門と山賊」の説明板が立っていた。何故??
徳川栄華物語からの抜粋で、「諸国漫遊の途次、高田越後家の騒動を治めた水戸黄門は、助さん、格さんなどをお供に、高崎城下に逗留した。
ある日、一行は山名八幡宮へ参詣の帰りに裏山で、山賊に襲われた母娘の危難を救ったという。」その裏山というのが、
この辺りではないかとあったが、その真偽は、言うまでもないですね(笑)。