信濃 平賀城(佐久市)

二の丸から本丸(石垣)を

佐久南部地方の一大勢力・平賀氏代々の居城

所在地

長野県佐久市平賀(大林寺の約500m東の山)
大林寺:平賀5064、電話0267-62-1484、駐車場拝借

形状

山城(標高861m、比高155m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、石積み、堀切、石碑、説明板、遺構案内標柱

満足度

★★★☆☆

訪城日

2008/12/25

歴史等

平賀(ひらか)城は、築城年代は明らかではないが、佐久郡南部に勢力をふるった平賀氏が代々にわたって要害とした山城である。
平賀氏は、信濃国を本拠地とした武家の一つで、平安時代の後期に新羅三郎義光の子盛義が佐久郡平賀邑を本拠とし、 平賀冠者と名乗ったことに始まる。その子義信は源義朝に従い平治の乱に出陣、また治承4年(1180)源頼朝が挙兵するとその軍門に参じた。 その後、鎌倉幕府の有力な御家人となって中央で活躍した。
佐久平賀郷では、在地豪族などが平賀姓を名乗っていたが、信濃源氏小笠原氏の庶流大井氏の勢力下となり、 庶流の岩村田大井氏出身の平賀玄信が記録に残されている。江戸時代、平賀源内はこの平賀氏の子孫を名乗った。
『「現地説明板」、「フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)」より』

現況・登城記・感想等

平賀城は、本城・城平・搦手曲輪等から成っている。本城は山頂にあり、本丸・二の丸・三の丸が連郭式に並び、本丸は山頂部の最も奥 (東)の最高所にある。また、山腹全体に非常に多くの段曲輪がある。
説明板には「本城は天然の険阻な山頂にある」とあったが、登城道は緩やかな坂道を気持ちよく登れ、15分ほどで到着する。
尤も、本丸の周りは急崖になってはいたが・・・。実際、背後は巨石がいたるところに露出する崖になっており、 細い道がついているようだったが、落ちたら洒落にならんと思い、下りのはやめたが、これは失敗だったようで、 この道こそ搦手曲輪への道だったようだ。
この城も、この付近にある内山城や志賀城と同様、 山全体が岩だらけで、石積みも多く見られる。土塁も悪くはないが、信州の山城は、佐久に限らず、石積みが多く見られるのが、 石垣フェチの私には何とも嬉しい。
今回の登城で失敗したことが2つある。一つは、搦手曲輪へ行かなかったこと。もう一つが、段曲輪内へ入って行かなかったことである。
登城後に、この2ヶ所に非常に多くの石積みがあるらしいことが分かったが、後の祭!
いつか、再登城してみる価値がありそうだ。
(2008/12/25登城して)

ギャラリー

平賀城全景
平賀城は地図で見れば場所は一目瞭然だが、実際に現地に行くとどの道を登って行くのかが分かり辛い。私は、 国道254号沿いの大林寺の隣にある細い道から東へ約500mほど行ったところにある部落(写真中央の三角形の屋根の所)を通って入山した。

㊧瀧不動尊、㊨平賀不動尊
部落の中を通り城山の麓へと入って行くと正面に瀧不動尊、その左(東)には平賀不動尊がある。 瀧不動尊には石積みが見られるが、これは後世のものであろう。また、両不動尊の裏は巨大な岩の崖が迫っている。
 

登城口
平賀不動尊の左側から整備された道を登って行く。この石垣も後世のものかな。

石積み
登城道を登って行くと、あちこちに石が転がっていたり、石積み跡が見えてくる。

腰曲輪
登り始めて10分強で、この腰曲輪へと出る。尤も、ここまでにも腰曲輪跡らしきものは何箇所か散見されたが・ ・・。

岩が散乱、そして三の丸の石垣が
上写真の腰曲輪の所から、少し登ると、崩れた石積みのような石が散乱しており、 その上の方に三の丸虎口下の石積みが見えてくる。

三の丸虎口下の石積み
この石積みが最も良好に残っていたが、積み直したものだろうか?

三の丸虎口下の石積みを正面から

三の丸虎口
三の丸虎口には「平賀之城趾」の石碑と説明板が立っている。この虎口のところには礎石のような石があった。 また、この虎口自体も石段で造られていたようだ。

三の丸
三の丸からは、二の丸~本丸方面へと段々に高くなっているのがよく分かる。私は、 細い尾根の上にこのように連郭式に曲輪が連なる姿が何とも好きだ。ただ、戦国の城なのに、曲輪間に堀切がないのが不思議だが・・・?

二の丸①
奥の石垣上が主郭。

二の丸②
本丸手前に石垣が二段になっていたが何だろう?後世に神社か何かが建てられた際の土台だろうか?

本丸①
本丸は二段になっており、低い段には東屋が建ち、「平賀氏城跡」の標柱が立っている。

本丸から内山峠方面を
正面奥の方が内山峠、写真左下を街道が通っており、その向こうには内山城がある。

搦手
本丸奥には搦手口らしきものがあったが、巨石がいたるところに露出する崖になっており、 細い道がついているようだったが、落ちたら洒落にならんと思い下りのはやめたが、これは失敗だったようで、 ここから搦手曲輪へ行けるようだった・・・。

段曲輪
下城は、途中に西へと分かれる道があったので、そこを下りて行ったら、左側に腰曲輪群(段曲輪)があった。 大した藪ではなかったが、何となく億劫で入って行かなかった。ところが、これが大失敗! ここには石積みが一杯残っていることが帰ってきてから分かった(泣)・・・。

分譲住宅
上写真の段曲輪横の道を下りて行くと、何と目の前に分譲住宅が見えてきた。これにより、 かなり城址の破壊が進んでいるんだろうなあ。

もう一つの登城口(大手道らしい)
上写真分譲住宅まで下りると、そこに「←平賀城址」の案内板が立っていた。写真右奥が腰曲輪群(段曲輪) である。どうやら、こちらが大手道だったらしい。

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コメント

富岡武蔵(2009/01/27)

平賀城は数年前に登りました西山の尾根から登り最初に南の山腹に何段もの段郭があったのを記憶しています。三の丸、二の丸、本丸と間を区切る空堀がないのには奇異な感じを持っていましたが、武田氏は平賀城に手をいれなかったのは内山城を重要視していたのかもしれません。
 一月に栃木の唐沢山城にでかけてきました。栃木一の名城と思います。避来矢山は一城をなして別郭の縄張りです。本丸の北側を守るだけでなく、大手桝形虎口も監視していたようです。二の丸、本丸の石垣も神社のため後世のものと思っていましたが、佐野房綱による石垣が残っていると知り、改めて感動しました。

タクジロー(2009/01/28)

武蔵さま
ご無沙汰しております。
平賀城ですが、せっかく冬に行ったのにも関わらず、南の山麓の段曲輪へ入って行かなかったのが今でも残念です。
唐沢山城は、私も、何年か前に登城しました。関東の山城には珍しく本格的な石垣がありますよね。
東京方面まで望める眺望も素晴らしかったです。

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