武蔵 石神井城(練馬区)

僅かに残る主郭周囲の土塁と空堀

鎌倉時代に豊島氏により築城、太田道灌に攻め落とされる

所在地

東京都練馬区石神井台1丁目

形状

平城

現状・遺構等

現状:石神井公園
遺構等:曲輪、土塁、空堀、三宝池、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2002/11/23
2010/03/30

歴史等

石神井城(しゃくじいじょう)は、平安時代末期から室町時代中期まで、現在の台東区・文京区・北区・荒川区・板橋区・足立区・練馬区などや、その周辺に勢力を持っていた豊島氏の居城の一つである。豊島氏は、葛西、江戸両氏とともに秩父流平氏である。 石神井城の築城は、鎌倉時代後期と考えられる。
室町時代中期、豊島泰経は武蔵守護上杉顕定に叛いた長尾景春に味方したため、文明9年(1477)4月28日、顕定を援助していた(扇谷)上杉定正の重臣太田道灌に攻められ、落城し、廃城となった。
泰経は落城の後、平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年の1月25日、再び道灌に攻められ小机城 (横浜市)に逃げている。その後の泰経の足どりは分かっていない。
『現地説明板2ヶ所より抜粋』

現況・登城記・感想等

石神井城址は、三宝寺池南側の林の中にある。花見の序で(?)に、8年ぶりに登城した。
石神井池から三宝寺池まで池のほとりを歩くと、都会の中で武蔵野の雰囲気が良く残っていて和ませてくれる。
前回は、古い城址の何たるかがほとんど分からず、ただの雑木林にしか見えなかったが(尤も、案内板があったので分かった?)、土塁と空堀が割り合い良好に残っているのを再確認。この8年で、かなりの知識向上?(^^)
ただ、空堀と土塁に囲まれた本丸は、周囲にフェンスが設けられていて、中に入れないのが残念。尤も、フェンスに「学術研究(歴史学習)や生物調査、観察、その他必要に応じての立入りは、公園事務所に相談下さい」とあるので、事前に申し込めば入れてくれそう?
また、城址の南にある三宝寺の東側に、はっきりとした土塁遺構も発見した。
これらの遺構は、都内23区内に僅かしか残っていない貴重な中世の城址遺構だろう。
(2002/11/23、2010/03/30登城して)

ギャラリー

城址の図(現地説明板より)
図にある、西側の濠(写真右)を捜したが分からなかった。また、中央が氷川神社になり、図では土塁で囲まれているようになっているが、ほとんど分からない。

沼沢地の名残を残す三宝寺池と石神井城址(左)
石神井城址は、三宝寺池南側の林の中にある。池のほとりを歩くと、都会の中で武蔵野の雰囲気が良く残っていて和ませてくれる。

石碑と説明板
石碑の背後の小高い部分が石神井城の主郭にあたる。

主郭周囲の土塁と空堀
本丸周囲の空堀と土塁跡。周囲は保存のためフェンス越しにしか見ることは出来ない。空堀は殆ど埋まっているが、往時は上幅11m、底幅3m、深さ6mもの規模があったとのこと。また、土塁は現在は2~3mしかないが、築城当時は推定4~5mあったとのことで、基底幅は12~3mとのことである。

氷川神社
主郭の西側の氷川神社は、応永年間(1394)に豊島氏が武蔵一之宮の分霊を奉斎して、石神井城址内に創建したものである。

三宝寺の東に残る城址土塁
三宝寺の東に残る城址東側の土塁は高さ3~4mはあり、しっかり残っている。

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