武蔵 杉山城(嵐山町)

出郭から大手方面を眺める

遺構がよく残り、中世山城の教科書的な城址

所在地

埼玉県比企郡嵐山町杉山600(積善寺を目標に)

形状

平山城(標高約100m、比高約20m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、空堀、土塁、櫓台、井戸跡、門跡、石碑、説明板

満足度

★★★★☆

訪城日

2007/02/25

歴史等

杉山城は、戦国時代の築城と推定される。北方に四津山城・越畑城・高見城と連絡し、南方に鎌倉街道を見下ろし、 その遠方に小倉城を臨むという絶好の立地条件から、恐らく、北条氏が武蔵から管領上杉氏を追い払う中で、武蔵松山城鉢形城とをつなぐ軍事上の重要拠点の一つであったと考えられる。
築城年代や城主名等については不明な点も多いが、城主等の伝承として新編武蔵国風土記稿に庄主水と記されている。 庄主水がどのような人物かは不明であるが、地元では、武蔵松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水の居城と伝えている。
杉山城の総面積は、約7.6ヘクタールで、山の高低差を巧みに利用して10余の曲輪を理想的に配置しており、 県内でも屈指の名城址と評価されている。
現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えには当時の高度な築城技術が忍ばれる。「馬出」や 「枡形」の塁線を屈曲させて構える「横矢掛かり」の多用はその典型とされる。
『「積善寺ホームページ・杉山城の門前寺として:http://www7.ocn.ne.jp/~shouden/sugiyama.htm」 、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

特別大規模な山城(平山城?)ではないが、実に遺構が良く残っている。ほぼ完全に残っていると云ってもいいのではと思われる。
杉山城は、本丸を中心に、三方の尾根に広がる階郭式の縄張りである。
各曲輪のほとんど周りには、空堀が設けられており、城郭全体が空堀だらけといった感じである。空堀は、幅も狭く、深くもなく(尤も、 往時はもっと深かったであろうが)、あまり大規模ではないが、屏風折りになった空堀が実にかっこいい。それは同時に、防御の上でも、 各曲輪への虎口に横矢がかかることになり、さらに細い土橋と土塁虎口、また一部には馬出が設けられたりして万全な構えとしている。
とは言いながら、先週、登城した諏訪原城の壮大な(強烈な?)堀群を見た後だから、余計、そう考えるのかも知れないが、各曲輪・空堀・ 土塁等々、全てが小規模で、実戦で本当に役立つのかなあとも思ったり、又、大砲もなく、 鉄砲も少ない当時の兵力ならこの規模でも大丈夫なのかなあと思ったり・・・。
杉山城址は、私有地だそうであるが、遺構がよく残っている上に、綺麗に整備され、しかも説明板等も充実しており素晴らしい城址で、 非常に楽しく廻れる城址である。本当に持ち主の方に激烈感謝である。
また、地元の小学生も城の整備計画に参加しているようであるが、それによって、その子供達が歴史に興味を持ってくれて、将来、 日本の文化財を大切にしてくれるといいな等々(余計なお世話?)考えながら廻った。私は、歴史に出てこない城址には、あまり興味がないが、 これだけの遺構を見せ付けられたら別である。それと同時に、これだけの城が、何故、歴史上に出て来ないのかも不思議である。
(2007/02/25登城して)

ギャラリー

杉山城址の縄張り   ~クリックにて拡大画面~

出郭から大手へ
出郭とは、大手の前に配置された郭で、北側(写真右)に低い土塁がある。大手には、 直線的に侵入できないように溝が掘られているのが発掘調査で見つかった。
 

【郭】
(本郭)
発掘調査で、本郭は、火災に遭い火事場片付けをした上で廃棄されているのが分かった。 火災に遭い廃棄されたのは、15C末に近い後半から、16C初頭と考えられるとのこと。

本丸に立つ石碑と説明板

㊧南二郭から本郭土塁を、㊨南二郭下の帯郭(写真奥は大手)
 

井戸郭
本郭から井戸郭を。井戸郭と本郭の間には木橋(引き橋)がかかっていた。

㊧井戸郭からの眺望(真下の帯郭に井戸跡が残る)、
㊨井戸郭下の帯郭に残る井戸跡
この井戸は、城郭内で確認される唯一の井戸である。地山が岩盤なので、現在でも、ほぼ1年中、 水がしみ出ており、春先には山椒魚の産卵場所になっている。
蓋の石は、城の造成の際に掘り出されたもので、このように蓋をしたのは、廃城の際に、敵方に使われないように「水の手を断つ」 ためだと思われる。
 

東二郭と東三郭(本郭から写す)
すぐ手前が本郭で、一段下がって、東二郭、さらに一段下がって東三郭。

馬出郭(南三郭の虎口土塁上から撮影)  ~クリックにて拡大画面に~
私は、ここが、見所が多いこの城の中でも、一番気に入った。

【空堀】             ~クリックにて拡大画面に~
各曲輪のほとんど周りには、空堀が設けられており、城郭全体が空堀だらけといった感じである。空堀は、 幅も狭く、深くもなく(尤も、往時はもっと深かったであろうが)、あまり大規模ではないが、屏風折りになった空堀が実にかっこいい。
(屏風折りの空堀)
㊧南二郭の空堀、㊨本丸空堀
 

(屏風折りの空堀)
南三郭の空堀(右側の土塁の下は崖になっている)
 

【土橋】
各郭が小さくて、数が多く、しかも、 ほとんどの郭の周囲に空堀が掘られているので、虎口と土橋がやたらと多い。
(本丸・北二郭間の土橋)
㊧本郭側から、㊨北二郭側から
 

㊧南二郭・井戸郭間の土橋、㊨東二郭・東三郭間の土橋 (正面上の土塁は本郭)
 

南三郭・馬出し間の土橋
手前が馬出郭で、土橋を渡り虎口を入った処が南三郭。

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